思い出書いておくブログ

なんの取り柄もない33歳のブログ

世の中を凌ぐ(15)【プールの思い出】

福岡は今、連日35度近くまで気温が上がり、少し営業に出ると
全身がびちょびちょになる。今年の夏は夏らしいことをしないまま通り過ぎていきそうだ。キャンプも川遊びもしていないし、出かけてもいない。
まぁ、それは仕方ないとして、こんなにうだるように暑いとプールにでも飛び込みたくなる。そんなことを思っているとふと、小学生の頃の思い出がいくつか蘇ってきた。

 

この季節になると、「チリンチリン」という音を楽しみにしていた。
ぼくは小学生の時めちゃくちゃぼろいマンションの5階に住んでいた。
夏休み家にいる時は、耳を澄ましていることが多かった。
それは「チリンチリン」となる音を待っていたからだ。

この音の正体はアイスキャンディー屋さんだ。
当時は、アイスキャンディーの屋台みたいなのがうちのマンションによく来ていた。
1本100円くらいだったかな?この音がするとマンション中の子供たちが100円を握りしめて一斉に集まっていた。今じゃ、こんな風景もなくなったからこそ懐かしい。
アイスキャンディーを食べて、素麺をやたら食べて、ベランダでスイカを食べていたことを思い出す。

 

他には夏といえば「プール」だった。
小4くらいからはサッカー部の練習が休みの時は自転車で40~50分位かけて
市民プールに友達とよく行っていた。子供たちだけで行くことがとても楽しかった。


いつも母さんに500円をもらって入場料で300円と200円をおづかいとして週に1~2回子供だけでプールに行くことがとてつもなく楽しかった。

 

そんなある夏。いつも通り友達とプールに行くからお金を頂戴と母にせがんだら、


「お金がない。」

と言われた。子供ながらに500円くらいはあるだろう。
決してわがままな金額ではないから、何かで母を怒らせたのかと思ったが見当もつかない。

 

「そんな意地悪言わないで、500円頂戴よ」

 

といったが、「本当にお金がない」と言われた。

子供ながらにガチでお金ないのかと感じたが、僕は昔からわがままだった。
泣きながら、これじゃ友達とプールに行けない!と叫んでいた。

そんなやり取りをしていると姉(当時大学生)が部屋から出てきて

「これで行ってきな。」といって1000円をくれた。

当時の小野家は相当財政難の時期もあったらしく後々知るのだが

大学生の姉がモスバーガーでバイトしていたお金を家に入れていたらしい。

姉は学生のうちから自分で車を買い、親からお金をもらうことをしないのはもちろん家にお金を入れていたらしい。

 

まぁ当時小学生の僕はそんなこともつゆ知らず、
「ありがとう!姉ちゃん!」
といってウキウキでプールに出かけていくくらい、クソガキだった。

当時の家の苦労なんて知ってもいないし知ろうともしていなかった。
(高校でもそうだったし、大学でもそうだった、何ならつい最近までそうだった)

しかも、我ながらダメな人間だと思うのが、
そんな価値のある1000円をしっかり一日で使ってしまったのを覚えている。

内訳は入場300円フランクフルト200円かき氷200円ジュース2杯。

いつも500円で問題がなかったのに、1000円をもらったら1000円全て使ってしまう子供だった。

 

三つ子の魂百まで である。

 

根本的に今までの33年間変わってない。

 

自分の息子にはそうなってほしくない。
お金の教育は絶対にしていこうと思う。

 

この考え方は少しずつ変わってきていると思う。。。
その中でも大きな影響を与えてくれたのは妻だ。

 

感謝している。

 

 

世の中を凌ぐ(14)【児玉くんと中田くん】

大人になって、結婚すると小学校の時のように簡単には友達ができなくなる。
学校ではクラスがあるから同じクラスで中のいい友達が出来るとほとんどの時間を一緒に過ごすようになる。

小学校でサッカー部以外で多くの時間を過ごした友達は児玉くんと中田くんだ。
小5〜6年生の時は3人とも同じクラスで学校ではずっと一緒にいた。
不思議なもので、児玉くんと中田くんと仲が良かったが学校生活以外の時はいつもサッカー部のメンバーでサッカーをしていた。

しかし小学校でのサッカー部以外の仲の良かった友人はその2人意外出てこない。

児玉くんは少しヤンチャな小学生だった。
運動神経が抜群でとても面白い少年だった。

中田君は双子で弟の方だった。
双子あるあるだけど、2人はいつもペアルックだった。
中田くんも運動神経が抜群で、ジュニアオリンピックとかに
出るくらい足が早かった。

 

そんな小学校でも目立っている2人と学校生活での多くの時間を送っていた。

 

3人で何かの出し物で当時人気だったSPEEDのホワイトラブを
フリ付きで歌うというとんでもない公開処刑になる発表もした。

あとは、僕の得意なあだ名付けを女子にして楽しんでいた。

 

だけど、ある日突然2人に無視された事を覚えている。
期間的には2〜3日くらいだったと思う。
まぁ、多少傷ついたような気もするけど、あまり気にしていなかった事を覚えている。
2人になぜ無視されたのかは覚えてないが、話しかけても返答がなく、休み時間も一緒に遊べなかった僕は、その2人にしがみつかず他の友達と過ごしていた。

ビビリだったり、人の目を気にするけど人付き合いに関してはあまり執着がないタイプだったのだと思う。なぜか分からないけど、


「そっちがその気なら別に君たちに執着しないよ」

 

というプライドがあったのかもしれない。

その後、昼休みに僕が1人で鉄棒付近で歩いていると2人がやってきて

 

「何して遊ぶ?」

 

と何も無かったように話しかけてきて、自然と仲直りした記憶はある。

その時に思ったことは

仲直りできて良かったって事と、いつもと違う友達と遊んでいる時も同じように
楽しかったという事。

 

 

もしかすると、それは今もそうかもしれない。

誰も知り合いのいない福岡に行くときに心細さなどは無かった。
もちろん、関東にいたときに出会った大切な人たちは沢山いるし、
有難いことに本当に大好きな人たちとは福岡でも連絡が取れている。

 

でも、その人たちと離れる事が苦痛と言うほどでもない。
むしろ、これからも繋がっていくだろう人からしか連絡も来ないし連絡もしない。
離れた事で、いい意味で大切な人とさらに深く繋がるきっかけになった。

 

話を戻すと、児玉くんとも中田くんとも連絡はもう取れていない。
むしろ小学校の頃の友達で未だに連絡を取っている人はもう誰もいない。
SNS上だけだがインスタで最近繋がった幼なじみくらいだ。

 

なんなら、2人とは中学校でバラバラのクラスになってからは、まともに会話していない。これは僕だけではなく、児玉くんも中田くんもお互い話す機会が激減していたと思う。僕はそのクラスの奴と当然仲良くなるし、以前にも増してサッカーにのめり込んでサッカー部のみんなと共に過ごしていた。

 

僕の中学校は1学年8クラスまであった。
1学年300人を越すマンモス校だ。
あれだけ仲が良かった児玉くんは学校でも有名なヤンキーになっていた。
当時、栃木県はヤンキー文化が盛んだった。その中でも児玉くんはTOPにいた。


同級生には恐れられていたと思う。このシリーズにちょいちょい出てくるサッカー部のトヨが、小学校の時の感覚でみんなが恐れている児玉くんに

「児玉ー、そんなにツンツンするなよー」

的な事を言った瞬間に児玉くんに頭突きされて鼻血を出していた。
トヨ、なんか可哀想だったなー。

 

僕も積極的にコミュニケーションを取っていたわけではないが、
全く児玉くんの事を恐れては無かった。
たまに児玉くんともめた人の仲裁に入るような感じだった。
ただ、小学校の時の関係性ではもう無かった。

 

中田くんも同じ中学だったけど特に思い出せない。

 

当時中学生の僕は、小学校の時あんなに仲良かった3人がなぜクラスが離れただけでこんなに稀薄になってしまったのか分からなかった。

 

小学校の卒業文集でよくある「仲の良かった友達は?」の欄に
僕らはそれぞれの名前を書いていた。

 

なのになぜ、

児玉くんはエリートヤンキーになり
中田くんはほぼ接触がなくなり
僕はそれも気にならないのだろう

と考えることもあった。


まぁ、児玉くんとはまた話し合う事になるんだけどね。
サッカー部のいじめられっ子の根本くんの件で。

 

僕は結構出会い別れが多い方の人生だと思う。
栃木→鹿児島→栃木→埼玉→福岡

と住む環境が変わったりする度に新しい人間関係になる。

小中高大で未だに繋がっている友人は5人くらいだ。
その中には5年くらい会っていない友人もいる。

 

結構、さっぱりしてると思った方もいるかもしれないが

そのうちの1人で唯一の女性と僕は結婚している。笑

 

鹿児島の中学の同級生が僕の奥さんだ。

 

もしかすると人間関係ってのは離れていても気になる、連絡したくなる時に
その人との関係性の濃さが分かるのかもしれない。

 

 

児玉くんと中田くんは元気かなぁ。
1回3人でお酒でも飲んで中学でどんな風に思っていたのか話して見るのも面白いかもしれないなー。

 

 

 

 

 

 

 

 

世の中を凌ぐ(13)【白の長袖ポロシャツ】

今日から8月だ。
うだるように暑い福岡に今僕はいる。

福岡に来て早くも3か月が過ぎた。

 

単身赴任で1人でいることが増えると、色々と考えることも増える。
1人だからわかることも多い。

 

そういった中で気づいたことも多い。

 

人は人の目を気にしすぎる。

 

これで色々なことが制限されているのではないかと感じる。

そんなことを考えていたら、小学4年生の頃を思い出した。


僕はサッカー部に入部して毎日サッカーをしていた。

 

部活は小4から入部できるから、一番下っ端の学年だった。
小4と小6の2歳の年齢は圧倒的だ。

基本、ビビりタイプの僕だったが優しい先輩たちに囲まれ毎日楽しく

サッカーをしていた。当時は人と違うことをすることが怖くて仕方なかった。
みんなと同じじゃないと安心できなかった。
なぜそのよう思考になったのかは思い出せない。

 

多くの先輩が持っている、飲み物のボトルや、練習着、ウインドブレーカー、ベンチコートなどをマネしていた。

 

そんな時、事件が起こった。

きっと12月とか1月頃だったと思う。
僕がいた栃木県はそこそこ寒かった。

 

その日は氏家小学校で10時から練習試合の予定だった。
すると朝の8時頃に自宅の電話にサッカー部の連絡網が回ってきた。
「今日は寒いから長袖の白のインナーも持参してください」
という内容だった。
当時、2枚の半袖のユニフォームがチームであった。


青と黄色の縦じまのかっこいい1番手ユニフォーム
白のどこにでもある2番手のユニフォーム

 

僕は1番手のユニフォームのインナーのかっこいい長袖は持っていた。
しかし、2番手の白のユニフォームのインナーは持っていなかった。

 

パニックになった。

 

まだ試合まで時間はあるから白のインナーを買いに行こうと母に提案した。

しかし、母
母「青のインナー持ってけばいいじゃない」

それはまずい。みんな白の長袖なのに僕だけ青のインナーでは目立ちすぎる!
みんなの視線が刺さる。怖い。という感情で心はいっぱいだ。

 

僕「青じゃいやだ!白持ってないから白が欲しい」
母「あんまり白のユニフォーム着ないから白インナーいらないでしょ」
僕「欲しい!」
(まさか、みんなと違うから恥ずかしいから欲しいとは恥ずかしくて言えない)

母「これでいいじゃない?」

と言って持ってきたのが

白の襟付きの長袖ポロシャツだった。
確かに白い長そでではある。
しかし、襟があり、ボタンもついているし、生地も厚い。
こんなの来て試合出たら、もっとみんなの視線が刺さる!


僕「それは絶対にないだろう!」

 

母 キレる。

僕 泣き出す。

母がだんだん分かってきて、一人だけ違う格好が恥ずかしいから駄々こねていることを察する。

 

母「突然だから、白のインナー持ってない子も多いから恥ずかしくないと思うよ。」
僕「白のインナー無いなら行かない!」渾身の駄々っ子。

母ブチギレ。

 

監督に電話をかけ始め、

「おはようございます~。源太が白のインナーを持っていないから恥ずかしくて試合に出れないと言っているので休みます。」

 

源太号泣。

 

母「監督が長袖着なくてもいいし、白じゃなくてもいいって言ってるよ」
源太、さらに号泣。

 

自分がそんなダサいことを言っていて監督に知られて、チームにも言いふらされてとんでもない辱めに遭うことを想像してさらに号泣。

 

母「申し訳ございません。泣いてばかりいるので今日はお休みします」

 

源太大号泣。

僕「こんなダサい白のポロシャツなんてユニフォームの下に着れない!」

 

あきれた母、小学校の試合の観戦に行く。
僕自宅待機。
結局その日は勇気も出ず大好きなサッカーの練習試合に行けなかった。

母が夕方かえって来ると、
「なんで来なかった?」と聞かれても何も答えられなかった。
自分がそんなことでサッカーの試合を休んだことの方がもう恥ずかしかった。

 

そんな中、母が絶望的な言葉を言った。

「半分以上は白のインナー持ってきてなかったよ。青インナーの子もいたし半袖でプレーしている子もいた、カブちゃんは白の私服の長袖をインナーにしていたのに、あんたはそんなこと気にして試合に来なかったのね」

 

源太大号泣。

 

僕はこんな小学生だった。

みんなと違うことが怖くて怖くて仕方なかった。

 

結局そんなことが理由で試合に行かないっていう行為が
一番みんなと違うし恥ずかしい事なんだと知った。

 

そんな小学生だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世の中を凌ぐ(12)【ほっちゃん】

僕がこれが天才なんだろう。

 

と出会った中で唯一思った奴が小学校の時にいた。

それが、ほっちゃんこと「細川君」だ。

 

皆さんは天才に出会ったことがあるだろうか。
発想がいいとか頭がいいとかビジネスがうまい人は沢山見てきた。
しかし、「天才」と言える人はたった一人、ほっちゃんだけだ。

 

まず、ほっちゃんADHDだ。確実にADHDだ。
そして今思えば自閉症もセットだったかもしれない。
小学生ながらにこいつは変な奴だと認識できるくらいのADHDだった。
僕は先生にADHDの疑いをかけられていたから、どういう奴がADHDっぽいのか小学生ながらに分かっていた。

・じっとしてられない
・しゃべりすぎる。ずっとしゃべっている
・すぐにイライラする

これが全部当てはまっていた。
一つ一つ解説していこうと思う。

 

・じっとしてられない

いつも貧乏ゆすりをしていて、常に机がガタガタしていた。

・ずっとしゃべっている

めちゃくちゃ先生に質問をしていた印象がある。
あと自分が興味があるものについてはずっとしゃべり続けていた。
あと、一人寸劇をいつもしていた

・すぐにイライラする

納豆が大嫌いだったらしく、給食で納豆が出たときにに

配膳前の納豆がクラス分入った箱を3階から投げ捨てて問題になった。
キレると非常ボタンをすぐに押す。
それが面白くて、よくキレさせていた。

 

あとは以前に話した「かさぶた泥棒」(前回のブログ)も有名な伝説だ。

 

ただ、この話だけ聞いているとただのヤバい奴だけど、
彼は天才的な能力がいくつかあった。

 

まず、

とんでもない暗記力だった。

僕の小学校はマンモス校で全校生徒が800人以上いたとおもう。
1学年3~4クラスで各クラス35~38名くらいだった記憶がある。
先生も50人くらいいたと思う。
まずその先生の誕生日・星座・同じ誕生日の有名人&偉人を覚えている。
あとは自分の友達であればその特技を使える。
自分の誕生日を言えば何座で同じ誕生日の有名人&偉人をすぐ答えてくれる。
だから僕は毎朝ほっちゃんに会うと「今日はだれの誕生日?」と聞いていた。

他には、理科と数学に関してはぶっちぎりの理解度だったと思う。

いい意味で緊張や恥ずかしいという感情がどっかに言っているので
劇などの演技や、朗読なんかは才能抜群だった。
小4くらいから自分で先生方にプレゼンして、運動会の総合ナレーターなどをしていた。

 

そんな、ほっちゃんが唯一恐れていたのが「お母さん」だった。

めちゃくちゃ教育熱心のママだったのだろう。

ほっちゃんがいう事を聞かなかったり、非常ベルを押すと
担任の小倉先生は「お母さんにいうね」と一言だけ言うと、
ほっちゃんは静かになり全力で謝っていた。

 

僕は小学生ながらに担任の小倉先生に
「それは先生が言う事じゃないだろう」と思っていた。笑

 

それをよく見ていたので僕はほっちゃんが何かするたびに
「お母さんに言ってやろー」とからかい続けていたら、免疫ができてしまい
逆ギレするようになって、さらなる奇声をあげるようになった。

 

すると先生が「お母さんにいうね」といっても奇声を上げるようになり、
さらなる荒くれものになった。

 

その時、僕は枠からはみ出す奴の強さを知った。

 

意外と僕とほっちゃんとはそこそこ仲が良かった。
昔から僕は自分にはない特出したものを持っている人や、変な奴が好きだった


好きな女の子のかさぶたをその子の膝から剥がして、食べるくらいの異常性に興味津々だった。笑

納豆が嫌いだからって窓から全部捨ててしまう異常性や狂気。
非常ボタンをなんのためらいもなく押せる異常性や度胸。
のめり込むと授業中でも本を読み続ける変態さ。

あと、絵が独特でうまかった。
他にピアノもやっていて、クラシックとかの話もよくしていた。

中学校も同じだったのだけど、ほとんどほっちゃんとの記憶がない。
少し落ち着いて、一般生活になじめていたけど相変わらず変わっていた気がする。

 

ほっちゃん元気かなぁ。

 

子供の時の思い出を思い出すと、やっぱり根本は変わっていない。

僕は、自分とは違う考え方や他の人とは違う人や、常識や周りに染まらない人が昔から気になっていたことが分かった。

 

自分の考え方の原点は絶対に幼少期にあるのだと思う。

 

今後もっと振り返っていきたい。

 

 

では!!

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世の中を凌ぐ(11)【こーちゃん】

世の中にはお金持ちがいる。


自分の家とは全然違う生活がある。

 

このことを知ったのは小学3年生になってからだ。

僕はボロいマンションに住んでいた。
(それはこのシリーズの前半に書いてあるから見てね)

道路を挟んだ目の前に、マンションの敷地よりもでかいお屋敷があった。
例えると、サッカーコート10面分くらい?
とりあえずめちゃくちゃデカい家があった。

そこにこーちゃんが住んでいたのだ。
こーちゃんと遊んだ最初の記憶は、学校で住んでいる地区ごとに集められて
交通安全教室か何かをした時だ。

その時僕は小3こーちゃんは小4だった。
なぜか意気投合し、その日にこーちゃんの家に遊びに行くことになった。

こーちゃんはみんながランドセルを背負っているのに一人だけリュックや
エストポーチで学校に来てた。
子供ながらに「かっこいいな」と思った。

何となくうちの家の前の屋敷に住んでいることは知っていたが、
めちゃくちゃデカい屋敷には高い塀があり中がどうなっているのかは知らなかった。
その塀がぐるっと敷地を1周しているのだ。本当に城壁みたいだった。
とりあえずめちゃくちゃデカい。

 

イメージでいうと、江戸時代のお屋敷みたいな感じ。

 

敷地の中に入ると度肝を抜かれた。
まずデカい池に橋が架かっている。
あと森がある。
家が3つある。
車がたくさんある。


この時に、こーちゃんは住む世界が違う人間だと認識した。

そして家の中に入ると、
優しそうなおばちゃんがいた。
その人はお手伝いさんらしい。

昔、僕の家にもいたらしいが既にそんな記憶もないので、
こーちゃんはちびまる子ちゃんでいう花輪くんという認識になった。

 

広いリビングで当時の僕の家の5倍くらいの大きさのテレビで一緒にゲームをした。
すると、きれいな人がツボみたいな入れ物に入っているジュースとケーキをもって来た。どうやらお母さんのようだ。なんか、ドレスみたいな洋服を着ていた気がする。

 

こんな世界が目の前のお屋敷では広がっていることを初めて知った。

 

ただ、一つ伝えておきたいのがこーちゃんはめちゃくちゃいい先輩だった。
僕は4年生になるとサッカー部に入り、5年生のこーちゃんとさらに仲良くなった。
登下校も一緒だった。そして途中から公文式にも一緒に通った。

こーちゃんは頭もよくて運動神経も抜群でカッコよくて、無茶をするタイプだった。こーちゃんはよく僕の家にも遊びに来た。

こーちゃんの家と生活レベルが全然違ったけど、何も気にすることも無く普通に僕の家に遊びにきてゲームしたり漫画を読んだり、昼飯を食べたりした。

なんか、お金持ちぶる感じが全くなかった。

のちに知ったのだけれど、当時僕が住んでいたマンションはこーちゃんの家の持ち物だったらしい。

大家の子供と普通に仲良く遊んでいたという事だ。

 

最終的にサッカー部でも僕とこーちゃんの2トップでFWをしていた。
足が速いこーちゃんにいつもラストパスを送っていた関係だった。
スパイクもウェアもこーちゃんの真似をしていた。
朝は学校も一緒に行き、部活の行きかえりも一緒に帰ることが多く、一緒に公文式に行くことも多い2年間になった。(こーちゃんは一個上だったから)

 

こーちゃんには、駄菓子屋での遊び方、公文でのカンニングの仕方、面白い漫画、サッカーでの技、秘密基地の作り方、カードゲームの仕方や学校でのバレない早退の仕方や置き勉の仕方など色々教えてくれた。
ものすごくかっこいい兄ちゃんみたいな感じだった。

 

こうちゃんは小学校を卒業して、電車に乗って通学するような私立の中学校に行った。
凄く寂しかった。

 

氏家小学校を卒業したらほぼ100%でみんな氏家中学校に行く。
でもこーちゃんは有名な私立の中学校に行ってしまった。
僕が小6でこーちゃんが中1の時に1回か2回は遊んだような気がする。

その時、こーちゃんはサッカー部ではなくなぜか野球部に入っていた。
それもすごくなぜか寂しかった。

 

それから、会う機会も遊ぶ機会もなくなった。
別に喧嘩もしてもないのに、たまにあっても声を掛け合うこともなくなっていった。
そして僕が中2の時に鹿児島に引っ越してしまってから会ってもない。

 

きっと栃木で社長やっているんだろうなぁ。

 

僕は当時もしかしたら貧しい方の部類の家庭だったかもしれない。
でもお金持ちに対して悪いイメージが全くない。
多分こーちゃんのおかげだ。

 

こーちゃんはいつも僕に優しかった。
駄菓子屋でお菓子を買うときも3つとか2つ入っている駄菓子なんかだと
必ず「これやるよ」ってくれた。

こーちゃんの家に遊びに行ってメロンとかが出てくると必ず大きい方をくれた。
それが僕はすごくうれしかったし、先輩ってそうなんだぁと教えてもらった。

今ならわかる。

 

こーちゃんは生まれながら「ギバー」の教育を受けていたのだと思う。

 

今思うことは、お金持ちの方がいい教育やいい価値観を持てる人が多いと思う。

人は余裕がないと与えることができないし、学ぶこともできない。

こーちゃん元気かなぁ。

 

 
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世の中を凌ぐ(10)【あだ名~小学校編】

僕はあだ名をつけるのが昔から得意だった。

小学校の時は僕がつけたあだ名で学年集会で問題になったこともあるくらい
バズるあだ名をつけていた。

 

まずは、自分の小学校時代のあだ名を紹介しよう。
1年生~3年生
小野君、源太君、げんちゃん、小野様、たんげ君  あたりだった。
カブちゃんみたいに仲のいい人は「げんちゃん」が多かった。

4年生~6年生
僕は先輩と後輩と仲良かった。

先輩には
源太、オノデンオノデン坊や、坊や、坊や源、小野源、大工の源さん

あたりだったと思う。

ほとんどの先輩が「オノゲン」だった。オノゲンは今も言う人が多いあだ名だ。
小学校4年生からこれがあだ名一番人気だ。

由来は、CMだった。

皆さんは「オノデン坊や」をご存じだろうか。

 

------------------------------------------------------------------
オ~ノ~~デン~ぼうやは~みらいをはこぶ~
____________________中略_________

でんきのせかいをかけめぐる~

でんきいろいろあきはばら!でんきのことならおので~ん
-----------------------------------------------------------------------

という伝説のCMだ。

 

そこから

オノデン坊や」→「オノデン」→「オノゲン」
になり、派生形として「坊や」
そして坊や哲という漫画も重なり「坊や源」

という感じだった。

同級生は「源太」「げんちゃん」が多かった

 

後輩は「小野さん」「オノゲン先輩」一番多かったのは「源さん」だ。

 

僕は未だに年上には「オノゲン」後輩には「源さん」と呼ばれることが多い。
学校や仕事が変わっても大体これになるから不思議だ。

 

 

さて、僕が命名したあだ名(小学校編)をここに書き記そうと思う。
当時のお気に入り度を★5を満点として個人的評価もつけてく

一番のお気に入りは
女殺し油地獄」★★★★★
これは、小六の修学旅行で生意気な女子が旅館の夕食の際にスプーンで料理の油をすくって飲んでいたから命名した。
なぜこのあだ名だったかというと、図書室で「女殺し油地獄」という衝撃的な題名を見て頭に刷り込まれていたからだ。
これは学年主任にチクられて個別で呼び出されて怒られた。(ほかのあだ名も含めて)

 

次は

「かさぶた泥棒」★★★★★

これもムーブメントを起こしたあだ名だ。
細川君という天才が同じ学年にいた。とりあえず天才だった。
気が向いたら細川君の事はまた書く。
とりあえず、友達の誕生日とその誕生日の歴史的偉人をすべて暗記しているのだ。
ノーベル賞を受賞したキューリーと美川憲一の誕生日と一緒だと教えてくれたことを未だに覚えている。
その子は、少しADHDの気がありめちゃくちゃ変わっていた。
納豆が嫌いすぎてクラスの納豆を全部2階から捨てる伝説も残している
(ちなみに僕もADHDだと先生に疑われていたらしいが細川君はその比じゃないくらいに確定しているくらい変な奴だった。しかし天才)

その細川君が650人が参加する全校朝礼の真っ最中に好きな子の膝のかさぶたを

剥がして食べたのだ。もぐもぐと。これは大事件だった。

かさぶたをはがされた子の膝からは血が流れ号泣していた。
そして僕がその場で「かさぶた泥棒」が出たぞーとはやしたてた。
かなりの力作のあだ名だ。

 

次は

「ジズゾー」★★★★

同じ地区のNO1DF(地区選抜で会っていた)そいつが地蔵みたいだったので命名

 

「マリーヘルメッポ」★★★★

ほそだまりという女の子は僕の事が多分好きだった。
しかし、髪型がボブでヘルメットみたいだったから命名した。
多分それで嫌われた

 

「ファッションセンター しまむら」★

「680円」★★★

すごくかわいい村上さんという女の子がいた。

いつもかわいいワンピースを着ていた。
ある男友達がしまむらに行ったとき同じワンピースが
680円で売られていたこと発見して命名

 

「熊殺しさん」★★★

僕が小4の時の小6の先輩に命名

めちゃくちゃシュート力が強くて直撃したら
熊でも死ぬとおもったから。

 

「天ぷらそばん」★★

これは前に書いた僕がいじめていたと誤解された滝沢君に命名

理由は天ぷらそば臭いから。

 

「天使のブラ」 ★★

当時クラスのマドンナがスポブラみたいなもの着けだしたときに命名

小学生には早すぎた

 

「おりこう仮面」★★★★

先生の前だけ正義感出す女子に命名

 

「ずず木くん」★★★
とんでもなくズルい鈴木君が
ズルい頭付きをしたときに命名
こいつはいつも真っ赤なコカコーラのロゴTを着ていて
ほんとにズルい奴だった。

 

 

眠くなってきたので寝ます。

おやすみなさい。

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世の中を凌ぐ(9)【2019年12月24日】

確か2019年の年末に鹿児島は雪が降らなかった。
いつも年末になると、空がどんよりとしていて、寒くて物悲しいようなイメージがあったが去年の年末はそんなイメージが全くない。

多分、いい思い出があるからだと思う。

 

 

2019年12月23日

この日が出産予定日で妻と僕は昼過ぎから病院にいた。
前回のブログでも書いたが、「無痛分娩」だった。

色々と面白いエピソードはあったが着々と出産に近づいている。
妻の家族が19時ぐらいには病室にきて、出産の準備万端だった。

 

さすが無痛分娩。妻は最初は陣痛を痛がっていたが
麻酔を懇願して、麻酔を点滴で投与されてからは全く痛みがなく
ベットに横になりながらみんなで談笑していた。

しかし、思いのほか子宮が広がっていないらしい。
23日が出産予定日だったが明日に持ち越すことになった。
ここで、妻の家族は一時帰宅した。

妻は普段通りで体調も安定していた。
また2人で話をしたり、動画を見たりしていた。
そして妻は「眠いから寝る」と言って少し仮眠をとっていた。

僕は、不思議な気持ちだった。


いつもと同じ光景だけど明日には自分の息子が生まれている。

 

全く実感がない。
ただ、健康で生まれてきてほしい。そのことだけは強く願っていた。

 

2019年12月24日

 

朝方3~4時ごろ、妻の陣痛が始まった。
看護婦さんたちが、赤ちゃん少し苦しいから何とか、かんとか言っている。
そういう不安になるようなことは言わないでほしい。
急いでそれぞれの親に連絡した。

さすが無痛分娩。そこまで妻は苦しそうではない。

 

5時ごろ、なんか病室があわただしくなってきている。
妻の妹が到着した。
とうとう出産が始まる。

妻の要望で、出産の瞬間を目撃してほしくないらしく
目の前にパーテーションが置かれた。
1~2m先で新たな命が妻の股から出てくる。
きっとその姿と目撃してほしくないのだと思った。

自分もどうしても新たな命の誕生の瞬間を目撃したい!
という強い思いはなかったので、妻が出産しやすいようにすればいいと思っていた。

 

出産が始まったが、ドラマのような壮絶な感じでもなく、
ちょこちょこ「思ったほど痛くない」という声が聞こえてきた。

意外とパーテーション越しに会話はできている。

 

義妹は2018年に出産しているのだが、出産の瞬間に立ち会いたかったらしく
妻の出産の瞬間を目の前で観察していた。
そんなこんな、特別緊迫していない状況で出産が始まった。
6時過ぎに妻の両親も到着した。僕の母は多分家で寝ていたと思う。

 

出産が始まって2時間くらい経過したのだろうか、主治医や看護師さんたちが
少しそわそわし始めているような気がしてきた。
そんなことで僕はかなり不安になった。
昔から、自分事ではストレスや不安はないが自分の力ではどうすることも出来ないことへの不安は得意ではない。

 

義妹から「髪の毛が見えてきてるよー!」
と姉への激励が聞こえてきた。
妻も、痛みはそこまでなさそうだが麻酔のせいか いきみが弱いらしく中々
赤ちゃんが出てこないらしい。


すると、義妹がちょこちょこパーテーションから戻ってきていて
それもとてつもない不安になった。
しかし、母に

「ちょっと立ち眩みがするからソファーで横になる。」
という言葉を聞いた瞬間に、きっと股から赤ちゃんが出てくる映像が
結構衝撃的だったのだろうと予測がつき少し安心した。

かれこれ2時間くらいが立ち、分娩室がまた慌ただしくなってきた。
「赤ちゃん苦しそう」とか「体勢がきつそう」とか聞こえてくる。
なんか取り出すはさみ?トング?みたいなものまで出てきた。

「おかあさん、がんばってー」「もうすぐ生まれるよー」
と看護師さんから聞こえてくる。

 

主治医のおじいさんは
無痛分娩だから、なんちゃらかんちゃらとブツブツ言っている。
きっとこのおじいさんは無痛分娩の否定派なんだと思った。
別に否定派なのは構わないけどそれを態度で出すなよと強く思った。
だって、不安になるから。

 

自分なりに、出産の前に
仁(あの大沢たかお綾瀬はるかのドラマ)や
コウノトリ1・2や

ブラックジャックに宜しくなどで出産の予習をしていた。
そのなかでもコウノトリ先生が大好きで、

「赤ちゃんでるよー!!!!!!!」

でいつも感動していた。

 

おじいちゃんが「頭引っ張り上げるから、もっと力んで!」

って感じで、看護師さんが「赤ちゃん生まれるよー」
(この時には、義妹はパーテーション内でスタンバイ)
「生まれたよー!!!!」

 

って、言われて。
1秒、2秒くらいたっても
パーテーション越しには鳴き声が聞こえなくて、
「えっ。」ってドキドキして

3秒、4秒、5秒

経っても鳴き声が聞こえてこない。。。

 

パーテーション越しだからよく分からない。
ものすごく不安になったのを今でも覚えてる。

 

どうにも不安でパーテーションをどかそうと思った時に
「おぎゃぁー」って聞こえてきて
ものすごく安心していることを覚えてる。


この時の時間は今までで一番長く感じた10数秒だった。

 

この時はみーんな笑顔。

 

一応、手足があるか、指はちゃんとあるかはこっそり目視で数えていた笑

2019年(令和元年)12月24日 07時30分ごろ

小野凌世  誕生

 

意外と生まれた時間とか忘れそうだから残しておきます。

世の中を凌ぐ男になってくれるといいな。

 

 

 

 

なぜ、今回これを書こうと思ったかは妻の要望でした。
その妻が1番記憶に残したかったことが

 

「無痛分娩はマジで痛くない!マジ最強」

 

ってことらしいです笑

こういうことも忘れたくないので忘れないうちに書き残しておこうと思います。

 

 

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