思い出書いておくブログ

なんの取り柄もない33歳のブログ

世の中を凌ぐ(8)【凌世出産】

ここ最近のブログの題名に違和感覚えませんか?

もう8回目ですが。

 

元々、忘れてしまいそうな記憶をここに残しておこうと思ってその都度、昔の記憶を引っ張りだしてブログに残すことにしました。

僕が、忘れると誰も覚えていない記憶とかも多いので。


死んだ父さんやばあちゃん、友人との二人の記憶は僕が忘れたらこの世からなくなってしまいますからね。←今日のパンチライン

そんなわけで題名も「世の中を凌ぐ」と統一しているのですが、不思議な題名ですよね。実は、息子(0歳)の名前からとってます笑

 

世の中を凌駕する男になってほしいと思い、凌世。と表向きで言っていますが
どのように名前が決まったかというと、
完全に「字画」からのスタートです。

凌世が大人になったときに、姓名判断を調べてあまりよくない画数だと色々とそれを理由に言い訳されたくなかったので画数をある程度大切にしました。

 

完全に名前の画数は独断と偏見で僕が全部決めました。

 

まず特殊格にする。
次に特殊格にした場合 何格の名前がいいか。
次に名前を何文字にするか
(妻が2文字希望だったので2文字)
次に上の漢字と下の漢字を何画に振り分けるか
(その結果 上10画  下5画になった)
後はその画数の漢字を当てはめる。

 

 

凌世という名前は夫婦でとても気に入ってます。

世界を凌駕する
という意味も志高くていい名前の由来になってます。

そんなこんなで、ブログのタイトルが
「世の中を凌ぐ」にしました。

 

もちろん凌世の記憶もここに残しておこうと思うので
今回は「出産」の時の思い出を書いておこうと思うます。


令和元年の12月、僕は東京の本社で独立前の引継ぎをしていました。

12月は一番の繁忙月で正月休みもあるのでとてつもなく会社が忙しい時期でした。
その中で、「自分の第1子が生まれるから休みをください」
とは言いづらい雰囲気がめちゃくちゃあったのを覚えています。

 

しかも出産予定日は決まっていましたがその日にぴったり生まれるか分からないので
予定日の3日前には鹿児島に戻っておきたいと考えてました。
多分出産予定日が12月23日で会社の正月休みが12月28日からだったので、
12月20日~休みとってそのまま正月まで過ごしたいと会社に伝えたところ、却下されました。笑

 

そりゃそうだよね。と思っていたのですが、独立前でお金もあまり使えなかったので
20日~25日くらいまで出産立ち合いで休みをもらい、26日、27日のみ東京に戻り、28日にまた東京から鹿児島に飛び立つだけで

2往復もしないといけない&飛行機代が年間で1番高い時期(往復5~6万×2)だったので、もう辞めるんだからそれくらい大目に見てほしいなーって気持ちがあったのは事実ですが、あのくそ忙しい時期にお休みを頂けただけ感謝してます。

そんなこんなで鹿児島に戻ると、お腹の大きくなった妻は実家で元気に暮らしていました。まだ陣痛などもなく、終始穏やかでした。
なので、普通に妻の実家で2日ゆっくり過ごしてました。笑

 

特にトラブルもなく元気な状態で陣痛もないまま出産予定日の前日に前乗り入院しました。妻は痛みに激よわなので「無痛分娩」での出産です。そこからずっと立ち会っていましたが終始リラックスしていました。

入院して少したってから、「陣痛促進剤?」というものを投与して
徐々に陣痛が来たようでした。

少し前まで楽しく話していたのに急に「イタイイタイ!」と言いはじめ
とても苦しそうだったので看護婦さんをよんで色々確認したところ、 

なんかの数値を指さして、「この数値が100超えてきたらそろそろ赤ちゃんが出てきます。そして陣痛の痛みのピークです」と説明を受けました。

ふと、その数値を見ると確か20前後だった気がします。
妻と二人で20でこのくらい痛がっているのでこれが100超えたらどうなるのだろう
と不安になりました。相当痛みに弱い妻なので。

 

段々と痛がりはじめ、痛さのあまり妻は軽く嘔吐までしてしまいました。
「大丈夫?がんばれ!」と体をさすっていると、
「体さすらなくていいよ。それより数値は!」

 

僕の優しさに対応することができないくらいの痛みなのか

と思いながら、数字に目をやると・・・

確かまだ20くらいだった気がします。。。。。

 

吐くほどの痛みなのに20?と心の中で思いながら
「まだ30位だね・・・」と少し盛って報告したのを覚えています。

すると妻は
「これで30とか。100まで行ったら痛みで死ぬ!」

「麻酔お願いする!」

心の中で僕は
ほんとは20だから単純計算で今の5倍痛いんだよな。
下手したら100になったらほんとに死んでしまうかもな。と本気で思いました。

 

担当医を呼んできて(おじいちゃん)数値が30でかなり痛いので麻酔お願いします。
と妻が懇願すると。

 

主治医は
「もう少し陣痛の痛みを体験しなさい」
と言っていましたが、痛みに激よわの妻は断固たる決意で
「もう麻酔をお願いします!」
と言っていました。

 

多分そこから麻酔が始まりました。
(申し訳ないのですが記憶があいまいで間違ってることが多いかも)

 

 

そこからは多少の痛みがあるようでしたが落ち着き始め一緒に動画を見たりする余裕もありました。

夕方頃には、妻の両親や妹もお見舞いにきて出産の立ち合いに備えていました。

しかし、予定日の夜看護婦さんが「今日はお腹の張りが弱いから出産は明日かもねー」
一時、僕以外は自宅に帰宅。また二人の時間。


もう2000文字超えたので、一旦ここで終了します。

 

 

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世の中を凌ぐ(7)【クレイジーばあちゃん】

我ながら最高のネーミングセンスだと思う。

小学2~3年生とは思えない。
あだ名をつけるセンスはあった方だと思う。

さて、このエグい
クレイジーばあちゃんとは何者か気になるだろう。

読んで字のごとくである。

 

クレイジーなばあちゃんなのだ。
氏家では有名だったと思う。

僕とカブちゃんでつけたあだ名は、一部の町の人に広まって
クレイジーばあちゃんが誰なのか、分かる人は多かったと思う。
僕とカブちゃんでムーブメントを起こしたのだ。

 

後は「野球おじさん」という強キャラもいた。
これもいつか書きたい。


そんな、ひどいあだ名をつけて、、、と思うかもしれないがこちとら
殺されかけているのだから、それくらいは許してほしい。

物騒な言葉が出てきたが事実だ。

僕とカブちゃんがサッカーをいつも通り氏家幼稚園でサッカーを終えて
カブちゃんの家に帰る途中で急にこんな声が聞こえた。

「早く、渡れ!!!!」

 

ビクッとして後ろを振り返ったら
狭い道をトラックがそこそこのスピードで通り過ぎて行った。
渡ってたら完全に2人で死んでいた。

そして、クレイジーばぁちゃんを見ると笑っていた。
しかも声を上げて。

白髪で歯が少し溶けていて、目はうつろだったのを強く覚えている。

 

ほかにも、カブちゃんと近くのスーパーオザキに行くとたまにクレイジーばあちゃんを目撃する。ここでもクレイジーで、まずスーパー内の三ツ矢サイダーのミニ缶をその場であけて飲み始めている。そして、お総菜コーナーのおにぎりを食べている。
子供ながらに、「こいつやべぇ奴だな」と思った。

お金は払うのだろうかと心配で後をつけると、

買い物かごの中の精算が終わった後に自己申告していたと思う。
万引きではなかったらしいが、異常行動に間違いがない。
店員も慣れている感じではあったが。

そして、そのまま荷物を袋に入れる台に向かうと、あの刺身とか汁物を入れる
ロールのビニール袋をとんでもないスピードで巻きまくる!
なかなか伝わらないと思うが、あの汁物とか入れる袋を50枚くらい巻き取り始める。

子供ながらに「こいつやべえ奴だ」と思っていた。
ある程度巻き終わると、レジに行き小銭を払っている。
一応、そこら辺の分別はあるのかと子供ながらに驚いた。

他にも、僕とカブちゃんが帰っているといつもごみを集める場所にクレイジーばぁちゃんはいて、空き缶のプルタブを引っこ抜いている。

「またやってる」と二人で目を合わせながら、通り過ぎて300m位また歩いていると
またいるのだ、クレイジーばぁが!

300m先でプルタブを集めているのだ。
本当にだ。二人で「こいつはやっぱりやべえ奴だ」と思った。というかこの世の人ではないのではないかと言っていた。

 

他にも、カブちゃんの目の前の大きな駐車場(平面で2面あり300台くらい止めれるめちゃくちゃ大きい駐車場)で遊んでいると大きな声で


「ここは私の駐車場だから隣の駐車場で遊びなさい」


と言ってくるが、
この駐車場は両面、こーちゃんの(前に出てきた超金持ちの家の子)家の駐車場だからそんなはずもなく無視していると

「き~こ~え~な~いのかぁぁぁぁ!」

と急に大声を出してきて、怖くて逃げたりしていた。

一番怖かったのは、
夕暮れ時に、風が強くて陽が落ちてきた時にゴムボールが人の家の塀の中にはいってしまったのでその塀を登って塀の上で森みたいなとこにどこにボールがあるか見ていると
その森の中にクレイジーばぁが立っていてこちらを、にたぁ~と笑ってみているのだ!!風も強くて、髪が乱れていてほんとに金田一少年の事件簿に出てくる雪夜叉みたいな感じだった。

 

さすがに怖くなって、ボールを諦め塀から降りて走って逃げた。

 

 

本当にクレイジーばぁちゃんは僕とカブちゃんの中では恐怖だった。

 

しかし、部活が始まってからはあまり見ていない気がする。
一体、彼女は何者だったのだろう。

なんか、カブちゃんのおばあちゃんから詳細を聞いた気もするけど全く覚えていない。

 

カブちゃんに会う機会があったら聞いてみたい。

 

意外と思い出そうと思えば、子供の時の記憶も思い出せるもんだ。

 

 

 

 

 

 

 

世の中を凌ぐ(6)【蕪木君②】

カブちゃんの話の続き

 

僕はカブちゃんが大好きだった。
カブちゃんのおばあちゃんもおじいちゃんも大好きだった。
小学1年生から3年生の友達との思い出は今はカブちゃんばかりだ。
小学校ではクラスの半分が僕からいじめられているという有様だったし、
転校生をいじめていたやつだから、友達も少なかったのだろう。

しかし、カブちゃんはおろか蕪木家はそんな僕をしっかり受け入れてくれた。

今日思い出した思い出は

「蕪木家初のペット 」のリスについてだ。
当時、なぜかリスが流行っていたような気がする。
かわいいとか、ほのぼのしているイメージで流行っていたのかもしれない。

 

ある日、カブちゃんの家に遊びに行くとそんな流行っているリスが2匹いた。
いつも控えめなカブちゃんだか、その時は鼻息が荒かった。

どうやら、蕪木家のペットとして飼われたようだった。
檻の中を世話しなくかわいらしいリスが走り回っている。
確かにかわいい。ヒマワリの種をガシガシ食べている。

 

もちろん小学生低学年の僕はカブちゃんに
「触ってみたいから、檻から出してよ」

というに決まっている。

だがカブちゃんの表情が曇る。
聞いてみると。


 

めちゃくちゃ狂暴らしい。


こんなにかわいい見てくれなのにめちゃくちゃ狂暴らしいのだ。


カブちゃん曰く、めちゃくちゃ噛みついてくるらしい。


僕は大爆笑したのを覚えてる。
子供の時の性格は大人になっても変わらない。
今聞いても大爆笑するだろう。
そう聞くと余計に檻から出したくなるのが子供心だ。

 

「いや、檻から出してよ!かわいいじゃん!絶対今日は噛まないって!」
と、中々な交渉力&ゴリ押しして1匹だけ檻から出してもらえることになった。

 

最初は優しくカブちゃんがなでなでしていた。
全然狂暴じゃないじゃないか!と思った。

かわいいなーと思って、そろそろ僕にも触らせてと言おうと思った

 

その時!

 

かわいいリスがカブちゃんを噛んだ。
カブちゃんにカブりついた訳だ。

 

びっくりしたカブちゃんはリスを投げ飛ばしてしまった。

 

不運なことに、窓が空いていてそのまま家の外に買ったばかりのリスはとっとこと飛び出てしまった。

その後、何時間か探したけど見つからなかった。

 

残念でなんか申し訳ない気持ちになったことを覚えているが、
次の日、小学校で面白おかしくみんなに話したことも覚えている。
子供の時の性格は大人になっても変わらない。

 

後日談として、

もう1匹のリスも程なくして脱走して、蕪木家には空の檻だけが残った。

もちろん、これも小学校でみんなの前で面白おかしく話したことを覚えている。

子供の時の性格は大人になっても変わらない。

 

 

カブちゃんは、おとなしめの子供だったが多彩だった。
才能にあふれていた。そんなカブちゃんを知っているのは僕だけだったかもしれない

まず、
頭がいい  賢いのだ。

僕も賢い方だったけど、多分僕より賢かったと思う。
勉強でも知恵でも。
ゲームもいつも負けていたし。
将棋や五目並べも負け越していたと思う。

 

他に運動神経もいい。いつも外で2人で遊んでいたが
足も速いし、野球もサッカーもうまかった。
でも優しい性格だから、僕はFWでカブちゃんはDF
僕がシュートする人で、カブちゃんはセンタリング上げる人
僕がピッチャーでカブちゃんはキャッチャー
特にDFとセンタリングは小学生のレベルではなかった。
のちに氏小サッカー部(結構強かった)のセンターバックはカブちゃん
リベロは豊(幼稚園編に出てた)で小6からは僕がGKで守りの縦3枚になる。
3人とも市の選抜に選ばれるが、カブちゃんだけ辞退していた。

 

のちに中学校でカブちゃんは卓球部に入部してかなりの成績を収める。


カブちゃんのおかげで幼少期からオーバーヘッドやジャンピングボレーなど
練習できたから実践でスーパーゴールを何度も決めてきた。
僕はFWは上手くはなかったけど、魅せるプレーをいつも褒められていたのは紛れもなくカブちゃんのおかげだった。

 

後は、ピアノもできるし、絵もうまい、字もうまいし、やさしい。
その時に、男は見た目じゃないし、元気な奴がすごい奴でもない。
ってことを知れたのはいい経験だった。

それからは、独特な感性を持ったクラスメイトに強い興味を持つようになった。


カブちゃんにはいろいろ教えてもらった。

 

頭脳系や頭を使う遊びは小学校を卒業するまでカブちゃんと遊んでいたと思う。

 

4年生になると部活動に入部出来てサッカー部に入ってからは少しカブちゃんと遊ぶ機会が減った。だからあまり記憶がない。


ただ、すごく覚えている出来事がある。

僕が6年生の時、僕はGK、カブちゃんはDF(豊もいた)

で共にすごく居心地よくDFラインを構築していた。
結構な強豪と練習試合をしていた時に、僕が前に出て後ろにはじいたボールを
カブちゃんの俊足でゴールにカバーに入ってスライディングでボールを掻き出した後に
明らかに遅れて相手のFWがカブちゃんにスライディングをした。
結構鈍い音がして、その後にカブちゃんがうずくまっているのが見えた。

それを見ながらさっきのはゴールだと抗議している相手の背中めがけて蹴ったのは後悔していない。絶対に間に合うはずもなかったから明らかに削りに行っていた。


カブちゃんは半泣きで途中交代。そのまま病院に向かった。

 

カブちゃんが翌日松葉杖で学校に来た時には、笑った。
子供の時の性格は大人になっても変わらない。


ただ、女の子に「どうしたの?」と聞かれて
「ちょっとサッカーで相手にやられて・・・」
と誇らしげに言っているカブちゃんがカッコよかったことを覚えている。
小学生には骨折&松葉杖のセットはその日のスターになれるアイテムだった。

でも、こんなにひどいケガなら、相手の事蹴っておいてよかったと思った。
きっとあそこで、何にも悪びれてないあいつを蹴っていなかったら後悔していただろう。

 

 

カブちゃんの話はまだまだ尽きないけど、カブちゃんの話で5話位書けてしまいそうだから次は「クレイジーばあちゃん」の話をしようと思う。

これにももちろんカブちゃんも出てくる。

 

では、おたのしみに。

 

 

 

 

世の中を凌ぐ(5)【蕪木君①】

小学校1年から4年生までの思い出では、ほぼ蕪木君との思い出だ。
ほんとによく遊んでいた。

幼稚園も同じ氏家幼稚園だったが、幼稚園時代は遊んだことがなかったと思う。
仲良くなったきっかけは小学校1年生ぐらいだったはずだ。

 

1年生の時は、自転車で遠くに行くことを禁止されていた。

ほんとに近場で無いと歩いて友達の家に聞くことも禁止されていたと思う。

だから、出かけない土日はボロいマンションから徒歩30秒の氏家幼稚園で
1人でサッカーをしていた。

 

土日は園児が誰もいなく、先生がたまにいるだけだったので園庭は自由に使わせてくれた。意外と、他の子供たちが集まっていることもあった気がするから、かなりゆるゆるなセキュリティだったはずだ。

 

そこでほぼ毎週サッカーをしていると、毎週夕方にピアノ教室が開催されていた。

そこにいつも通っていたのが蕪木君だ。

 

土日の幼稚園でサッカーをしているといつも同じ時間に蕪木君がピアノ教室に来る。

蕪木君はいつもポロシャツにコーデュロイパンツかチノパンを履いてキャンパス地のトートバックを肩にかけていて、いかにも育ちのよさそうな奴だ。


当時僕は、男たるもの女がすることはしてはいけない!という

幼いながらに、頑固おやじのような思想があったので

ピアノをやっている蕪木君はダサい奴だと思い込んでいた。

 

しかし、何回か見ていると気になるのと
近くに住んでいる仲のいい同級生がいなかったこともあり
いつも土日に会う蕪木君が気になっていた。

 

ある日、ピアノ帰りの蕪木君にたぶん僕から声をかけた。

なんてかけたのかは忘れたけど、
一緒にサッカーをした。

品のいい服を着たまま蕪木君は一緒にサッカーをしてくれた。

蕪木君はサッカーをしたことがなかったからへたくそだった。

 

そしたら簡単に仲良くなる。

蕪木君の家は氏家幼稚園から徒歩2分くらいのところにあった。

氏家幼稚園の前(僕のうちの横)にはものすごく大きな駐車場がある。


これは、氏家では超金持ちだった赤羽家の所有物だった気がする。ちなみにそこの御曹司は赤羽コウゾウ(こーちゃん)は1つ上の男の子だった。またこーちゃんについては改めて書こうと思う。

 

そのものすごく大きな駐車場を250m位歩いていくと蕪木君の家だ。
何回か一緒にサッカーをしているうちにお互いの家に行き来するようになった。
お互いの親も、家が近いから許してくれていたのだと思う。

 

ピアノ教室以外の日も遊ぶようになった。
そしていつも間にか蕪木君から「カブちゃん」と呼び名も変わっていた。
僕の事をなんて呼んでいたかはあまり覚えてないけど「げんちゃん」だったと思う。
「げんちゃん、かぶちゃん」で仲良くやっていた記憶がある。

僕は親が共働きだから氏家小学校の学童保育に4時ぐらいまで通っていた。
うちの母は同じ小学校の給食のおばちゃんを一時期やっていた。
給食のおばちゃんは大体4時ぐらいに仕事を終えて僕を迎えに来てた。

 

しかし、学童を抜け出してよく、かぶちゃんの家に行っていた。
なぜなら、学童は小学校内にあったけど校庭は4年生以上の部活動をしている人が占領し、少し空いているスペースも3年生が遊びに占領していたから僕がサッカーをするスペースがなかった。

 

だからカブちゃんと一緒に帰って、大きな駐車場か氏家幼稚園でサッカーをしていた。

 

不思議なことにカブちゃんとは放課後の記憶しかない。

僕は学校の休み時間は、他の友達とサッカーをしていたけど
かぶちゃんは本を読んでいたり折り紙を折っていたりしたはずだ。

あと編み物もしていた。あやとりもしてた。

さして僕は興味がなかったから学校ではあまり遊んではいなかった。
だけど、放課後は僕といつもサッカーをしていた。

だが、かぶちゃんは運動神経がすこぶるよかった。
1~3年まで僕と放課後と休みの日はサッカーをしていたからすぐにサッカーがうまくなった。結果4年生になるとカブちゃんはサッカー部に僕と一緒に入ることになるが、
あのカブちゃんがサッカー部?とみんな驚いていたのを覚えている。むしろカブちゃんの親まで驚いていた。

 

だけど、僕はカブちゃんがうまいことを知っていたから何とも思わなかった。
もちろん2人とも小5の時にはレギュラーになった。
一応幼稚園の時にいた豊もレギュラーになった。

 

 

部活に入る前までは、サッカーをカブちゃんの家の前の大きな駐車場でしていると
カブちゃんの家のおばあちゃんが出てきて

「おやつの時間よー」って毎日声をかけてくる。
それが僕とカブちゃんのサッカーが終了の合図だ。

 

カブちゃんの家で色んなおやつを食べた。
おばあちゃんとおじいちゃんがものすごく優しかったのを覚えている。
カブちゃんの家も共働きで夕方まで同居しているおばあちゃんとおじいちゃんしかカブちゃんの家にはいない。カブちゃんは一人っ子だった。

 

僕が好きなおやつは「カステラ」と「オーザック」
カブちゃんは「小鬼のせんべい」と「ゼリー」
結構な頻度でそれをおやつに出してくれていた。
後は果物もよく出ていた。

そのおやつを、カブちゃんと僕で食べているのを嬉しそうにいつも見ていたことを覚えてる。それが2人で部活に入る4年生まで続いていた。

 

ちなみに、カブちゃんのおじいちゃんとの思い出も多い。

2~3年生のころには、おやつを食べ終わるとおじいちゃんタイムだった。
主に将棋と五目並べを教えてもらっていた。
僕とカブちゃんは氏家小学校の中は将棋がずば抜けて強かったと思う。
将棋の本とかをカブちゃんと貸し借りしてやぐらの研究とかもしたりしていた。

 

だから、いまもそこそこ将棋は強い方だ。

 

おじいちゃんのおかげもあり、サッカー以外の遊びも増えていった。
後はスーパーファミコンにも2人してハマった。

 

蕪木家のおばあちゃんとおじいちゃんの思い出は大切だ。
おばあちゃんとはカブちゃんと3人で買い物に行ったり、虫取りに行ったり電車を見たりした。おじいちゃんとのおかげで頭が多少はよくなったと思う。

 

僕はおじいちゃん、おばあちゃんと同居していなかったから2人の存在から学ぶことは多かったと思う。まだ、元気でいてくれることを願う。

 

ほんとうにカブちゃんとの思い出はキリがない。
3年生ぐらいからは自転車に乗って出かけたりしていたし。色んな思い出がある。

蕪木君②を次も書こうと思う。

 

 

 

 

世の中を凌ぐ(4)【滝沢君・漆原君】

小学校の低学年の時も、悪ガキだった。
僕の小学校は2年毎にクラス替えをしてた。たぶん。

だから1~2年 3~4年 5~6年が同じクラス。

2年生の時にクラスの担任と生徒一人ひとりが面談することがあった。
出席番号順によばれて、

学校はどうだ?とか、いじめられてないか?いじめられてる人いないか?みたいなことを聞かれていた。

 

僕は小野だから3番とか5番目の順番だったと思う。

特に学校生活に不満はなかったのでこの面談の記憶はない。
先生は竹田先生っていう女の先生だった。

全員が面談が終わった後に、なぜか僕だけまた竹田先生に呼ばれた。

 

追加面談だ。

 

竹田先生が言ったことはいまだに鮮明に覚えている。
「クラスの半分くらいの生徒が小野君にいじめられているって言ってました」とのこと。

小2の僕自身とても衝撃的でした。

傷ついたとかではなく。驚きの方で。

その時、竹田先生にこんな感じの事を言ったと思う。

「それはもはや、いじめではないです。」


僕は全くいじめている自覚はないし、だれかと共謀して仲間外れにするとかはしたことがない。昔から誰かを集団でいじめたり、仲間外れにしたことは断じてない。

人生でそれの類は一度もしたことはない。

 

竹田先生は笑いながら、
「わかっているよ、源太は弱い者いじめはしないよね。だけど、源太は気づかないうちにみんなを傷つけているってことを知ったほうがいいよ」

ようなことを言われた気がする。

 

そのくらいくそガキだったんだと思う。

 

 

 

そして事件が起きた。

 

(ここは母親から聞いた話)

2年生の保護者参観があり、
授業後にクラスの保護者と担任とで討論会があったらしく
一通りの打合せの後、

 

転校して2か月くらいの滝沢君のお母さんが急に立ち上がり、

「滝沢○○の母です!(名前は忘れた)転校して間もないのですがうちの子が学校である特定の人にいじめられています。内容は、てんぷらそば臭い。デブなどの悪口。
一番許せないのは無理やりチョークを食べさせられているみたいなんです。

ここでは誰とは言いませんが、お心当たりのあるお子様がいたらやめさせてください」

と発言したようで。

 

全くそんな話を僕から聞いてなかったが、うちの母はピンときたらしく

「そのいじめっ子の中に小野源太の名前はありましたか?」と聞いたら

間髪入れず

「ありました。」

と言われたようだ。

 

かなり教室でざわついたようです。

 

なぜか、うちの母が他の親から励まされたらしい。

 

その後、家で母と姉(12歳離れている幼稚園の先生)に

「天ぷらそば臭いとか、チョーク食べさせたりしたの?」と聞かれ

 

「したよ」

 

「なんでそんなことするの?」

 

「転校して一人でいたから、みんなに注目させてあげようとおもった」

 

「天ぷらそば臭いってなんでいうの?」

「天ぷらそば臭いから」

「なんでチョーク食べさせるの?」

「チョークで本体ではなくチョークの粉を食べさせた。

粉食べてみなよ?って言ったら食べてみんな笑って、いつも食べさせてた」

 

みたいな会話をして、家族会議では無罪認定されたと思う。

でも、滝沢君のうちに謝りに行って滝沢君に謝ったことは覚えてる。

 

ただ、親からはやみくもに怒られはしなかった。
ちゃんと正直に説明すれば基本的には分かってくれていたと思う。

すぐビンタはされていたけど。

 

竹田先生が言っていた事を覚えている。

「わかっているよ、源太は弱い者いじめはしないよね。だけど、源太は気づかないうちにみんなを傷つけているってことを知ったほうがいいよ」

 

今になって思い出した。

 

それからは誰にもチョークの粉を食べさせてはいない。

 

漆原君にも同じようなことをした。
見た目がランボーみたいで(多分どこかの国のハーフ)デカくて強かった。
当時ドラゴンボールにみんなハマっていたから、

僕は漆原君がブロリーに見えてブロッコリーとあだ名をつけた。

 

すると漆原君が怒り殴り掛かってくる。

 

それか花いちもんめをするときに

「そーだんしましょ!」の時に振り上げた足をわざと漆原君にあててキレさせる。

 

 

すると天下一武道会が始まる。

 

最初はタイマンだけど絶対勝てないので、
いつの間にか3対1(漆原君)の構図になるけどそれでもみんな勝てなかった。

すげー強かったなぁ。

漆原君元気してるかなぁ。

 

鈴木君はいつも真っ赤なコカコーラのTシャツを着ていて、

コーラってあだ名付けたりしてたぁ。

コーラのTシャツばかり着ているから左胸の安全ピンで名札をつけるところが穴が開いていた。

 

あいつは卑怯な奴だったぁ。

ジャンケンとか後出し普通にしてたなぁ。

いつもわざとケガしたふりしていたな。

 

でも一番よく遊んでいたのはカブちゃんだったなぁ。

意外と思い出してくる。

 

 

次はカブちゃんのこと書こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世の中を凌ぐ(3)【犬になりたい】

また幼稚園の頃の思い出を思い出した。

思い出そうとすれば結構出てくるものだ。

 

小学校の思い出や、中学校の思い出もポロポロ出てきた。

とりあえず古い記憶の方が忘れやすいから、今のうちに残しておくことにする。

僕は幼稚園の時は、とんでもない悪党だったと前回思い出したけど。
ジャイアンタイプではなく、スネ夫タイプだった。
はじめの一歩でいうと鷹村タイプではなく、青木タイプ。
ケンシロウではなくジャギタイプ

の幼稚園児でした。(自分でも言い過ぎかも。と思ってきた)
なぜかというと、頭がよかったんですよね。
これは自他ともに認める頭の良さとずる賢さ。

すべては、「やっててよかった公文式」のおかげです。
結構勉強が好きな幼稚園児だったらしく。年長の時には
・自分の名前を漢字で書ける

・掛け算九九が暗唱できる

・ことわざ博士(小学校の時には忘れた)

・俳句博士(小学校の時には忘れた)

・干支を全部言えた(今は言えない)

 

公文式でも県で優秀な奴に贈られる何かをもらった記憶がある。

 

だから、ずる賢い方に成長してあんな感じの幼稚園児だったのだと思う。
もう、頭の良さは無双状態だった。


幼稚園児あるあるで、
「今日は何の日でしょー。」
とか聞かれると
「どうせ誕生日でしょ?」
というようなクソ冷めた園児だった。
すると

「なんで?なんでわかるの?暗記してるの?」
って聞かれたことに対して
「いや、そういうのたいてい誕生日じゃん」

みたいなことを言うタイプだった気がします。

 

ふと思い出した記憶が、
幼稚園の卒業文集で、
一人だけ全部名前を漢字で

「小野源太」と書いて

将来の夢を「サッカーせんしゅ」と書いていたような気がするのですが、
そっちの記憶は結構あいまいで、

 

それ以上にはっきり覚えているのが、

千野根ゆうき君だった気がするのだけど、、、

汚いひらがなで自分の名前を書いて

将来の夢を「いぬになりたい」って書いていたことをなぜかすごく覚えている。

多分当時、名犬バウとかいうアニメがやっていて、
千野根君か野崎君が書いたバウの絵がめちゃくちゃうまかったのを覚えている。
他の子の文集の事は全く覚えてないけど。
名犬バウの絵と「犬(バウ)になりたい」の事は鮮明に覚えている。
千野根君だった気がするけど、ぽーっとしていて優しい子だったイメージがあって。

当時賢かった僕は、衝撃的な将来の夢を書いている千野根君か野崎君に興味津々だった気がする。

 

5歳とか6歳なりに、「いや、犬になったら人間以下だろ」とか
「犬になりたいって思う千野根君か野崎君はばかなんだろう」と思っていた。

 

(犬になりたいって書いていた子は絶対いたけどそれが千野根君か野崎君だったか自信はない。間違っていたら盛大に謝ります。)氏家幼稚園出身の人でこれを見た人は拡散せずにそっと胸の中にしまっておいてください。色々ややこしそうなので。

 

ただ、そんな犬になりたかった誰かは。
中学の時にヤンキーになっていて、その時はあまり話しかけはしなかったけど、
幼稚園の時あんなにぽーと生きていたのに激しい成長を遂げたなぁ。
ある意味、犬みたいになったな。`狂犬的な。と中々面白いことを思った気がする。
ちなみに中学校の時は千野根君も野崎君もヤンキーだった。
だから、幼稚園の卒業アルバムを今度実家に帰ったら見つけようと思う。

 

なぜこんなしょうもないことを覚えているのだろう。

記憶とは不思議なものだ。

 

この時に姉にそそのかされてサッカーにハマっていった。

あとは、ピアノを習っていた蕪木くんを馬鹿にしまくっていじめていたのを覚えているけど。小学校の1年生から3年生までは蕪木君こと通称カブちゃんが大親友になった。

 

だから次はカブちゃんとの小学校の思い出を書こう。

 

カブちゃんとは毎日一緒に遊んでたなぁ。
カブちゃんのおじいちゃんから色々教えてもらったし。

あっ、秀ちゃんやくそ金持ちの一個上のこーちゃんもいたなぁ。

 

小学校編で10記事位かけそう。

 

ちゃんと記憶に残しておこう。

 

ちなみに僕の甥っ子の俊太が幼稚園生の時に

将来の夢は?って聞いたら、
年中くらいで「魚になりたい」って言ってた。
年長くらいで「イルカになりたい」って言ってた。
人間の辛さをもしかしたらすでに気づいていたのかもしれない。


幼少期で結構、自頭は決まるのかもしれないと思った。

 

一応、俊太は普通の進学高校で副生徒会長ではあるけど
頭がいいタイプではない。

 

 

 

 

世の中を凌ぐ(2)【かめはめ波】

幼稚園の時の話を思い出してみた。

保育園で退所させられて母に畦道をいつもおんぶされながら歩いていたらしいが
人間はそんなに変わらない。僕は幼稚園でも相当最悪な奴だったようだ。
人はそんなに根本は変われない。

 

家ではいい子だけど外では悪い子みたいなくそ生意気な幼稚園児だった。
くそぼろい家からは3歳か4歳には引っ越してぼろいマンションに住んでいたと思う。
そのぼろいマンションの目の前が氏家幼稚園だった。

 

2年前くらいに奥さんと当時のマンションを見に行ったら、まだあったけどとてつもなくぼろくなっていた。。。

幼稚園では、お弁当業者が持ってきた園児達のお弁当をまとめている部屋に忍び込み
お弁当を一つ一つ空けてその中の唐揚げを勝手に食べていたり、足が遅いのにリレーのアンカーを無理やりやったりしたことを覚えている。

 

僕が年長の時に姉が短大での教育実習で氏家幼稚園に来たときに園児ブラックリストなるものがあったようでそこにしっかり、僕の名前が書きこまれていて恥ずかしかったって言っていた。

 

とにかく人の気持ちを考えられなくて、自分の思い通りにいかないとかんしゃくを起こすタイプの幼少期。

 

この時期にはっきり覚えていることは。

ドラゴンボールがやたらと好きだった。

いつも、豊岡君と幼稚園で遊んでいたと思う。

あと一人いたけど誰だっけなぁ。

千野根君かな、佐藤直道君だっけなぁ。


幼稚園の時の写真のポーズは2種類だけ

ウルトラマン」のスペシウム光線  か

ドラゴンボール」のかめはめ波
そのほかに「仮面ライダー」にもハマった気がする。
当時はビッグワンっていう、のちにツタヤに代わるビデオショップで
毎週、ウルトラマン仮面ライダーを父さんの自転車の後ろに乗りながら借りに行っていた思い出がある。多分3~4歳くらい。
小学校の時くらいにビッグワンの看板がTSUTAYAに代わっていたはずだ。

 

後は新幹線が好きだった。

 

でも、小学校に上がる前には「ドラゴンボール」にドハマりしていたと思う。
正確に言うと「ドラゴンボールZ」のほうかも。
多分それでも、小さい悟空が出ているドラゴンボールのほうが当時は好きで、
本気でかめはめ波を打てると思っていた。
漫画の中で、亀仙人かめはめ波を打てるようになるまで50年修業した。

 

っていうのを聞いて、1週間くらいはずっとかめはめ波の練習をしていた。

しかし、出なかったと思うしたった1週間かそこらでそのことさえ忘れていた。

 

その他には、クレヨンしんちゃんの真似をするから小野家では見せてもらえなかったけど、母さんが風呂に入っているときとかにこっそり見た時はうれしすぎてこんなにも面白いテレビがあるのかと驚いた記憶がある。
それで、幼稚園でしんちゃんの真似してみたけど、もうみんな真似するブームが終わっていて全然ウケなかった思い出がある。

 

この時くらいから、自分の弱さを気づき始めた。
幼稚園では、全部自分の思い通りにならないと癇癪を起こしていた。

だから、同級生の子たちは僕を怖がっていた。というよりめんどくさがっていたのかも。だけど、勘違いをして「自分は強いんだ」と思って、いつも周りの友達を顎で使っていた。だからなんでも思い通り。砂場で水を汲んできてほしかったら、水を汲みに行かせていたし少し嫌がるそぶりを見せても行かせていた。

しかし、僕は上級生の事は怖かったみたいだ。
上級生がブランコや砂場に来るとおどおどしてしまう。
そんな時、いつも水くみをしてくれていた豊岡君に偉そうに
「あいつらを追い払え!」って言ったら、豊はひるむことなく上級生に
ドラゴンボール界王拳を使う悟空みたいにすごい形相で(当時は気をためると言っていた)「はぁぁぁぁぁっ!」と威嚇した。
すると、上級生たちを見事に撃退したのだ。

 

実は僕自身あまり喧嘩をしたことがなかったと思う。
けんかをする前に癇癪でどうにか解決していたのだ。
でも、豊のこの威嚇があればもう上級生を怖がる必要がない!
やった!!と考えていたことを覚えている。


だけど「それって正しいのか?」って何となくは思っていた。

 

そして、予想通りなことが起きた。
いつも通り何かを豊に命令したときに、豊が
気を溜め始めたのだ。「はぁぁぁぁああぁぁ!!」って
僕にはそれが出来なかったし、味方の時は頼もしかったけど今や敵になりそうになっている。あの怖い上級生を撃退した豊が歯向かってきている。

 

この時僕は、立ち向かえなかった。

 

幼稚園の年長ではじめてマウントを取られた。

 

でも豊は優しいし幼稚園児らしい幼稚園児だったので威張ったりはしなかった。
いつも豊と写真を撮るときは僕は「かめはめ波」豊は「魔観光殺法」だった。
豊は優しい子だった。でも、このことは今もしっかり覚えている。

 

俺は、弱いのに強いふりをしている。

それはカッコ悪いことだ。

 

って、思ったことを。

ほんとは、俺がかめはめ波をずっと使ってはいけないと。
きっとみんなもかめはめ波で写真に写りたいってのは分かっていた気がする。
だけど、当時は同じ技で写真は撮ってはいけないルールだったから、ずっとかめはめ波を独り占めしていた。でも変わらなかった。

 

ちなみに、豊岡君は、小学校、中学校でも同じでずっとサッカー部で一緒でした。
中学校の途中で僕は転校して離れたけど、大学ではたまたま一緒に。
そして母校の小学校に一緒に教育実習に行くという何とも縁が深い友人です。
今も元気かなぁ。

 

豊は大学卒業まで一生懸命サッカー部に入り、見事学校の先生になって今は幸せな家庭を築いています。

 

子供の時の性格は普通に生きていたら大きくは変わらないんだと思いました。

 

今もこのことを覚えてるってことは今も心当たりがあるのかもしれない。
自分の都合のいいように人を使ったりしていないか、常に考えていこうと思う。
僕はテイカーの時期が長すぎた。だけどテイカーは結果的につらくなる。
だったら、ギバーになりたい。自分はそうなれているか気を張らないといけない。

 

かめはめ波を打つ努力もしないし、かめはめ波で上級生も撃退できないのにずっと
かめはめ波を独り占めしていた当時の僕に教えてあげたい。

 

「きっと、みんなかめはめ波のポーズしたいよ。」
「みんなでかめはめ波のポーズしようっていいなよ。」って。