思い出書いておくブログ

なんの取り柄もない33歳のブログ

世の中を凌ぐ(22)【歳の離れた姉】

僕は子供の時は4人家族だった。

父、母、姉で暮らしていた。

今日は姉の話でもしておこうと思う。

 

姉とは歳が14歳離れている。

結構な差だ。そうすると他の親より母さんの年齢が高いのが嫌だった。

僕は小学生くらいから繊細な心の持ち主だった。

 

中学生くらいまで見た目はやんちゃそうで目立ちたがり屋で活発だけど、心の底は恥ずかしがり屋でみんなと一緒じゃないと怖いタイプだった。

 

だから、授業参観の時他の子達に「源太の母さん年寄りだな」って思われそうで怖かった。

 

今思えば、しょうもない。

母すまん!って感じだけど。

 

だから、一度姉に授業参観に来てもらったことがある。素直に嬉しかったし、担任の先生が男で若かったのと仲良かったから「お前の姉ちゃん綺麗だな」と言われて誇らしげだった。

 

そんな姉は、保育士だった。

 

14も歳が離れていると、面白いことが起こる。

僕が幼稚園の年長くらいに短大生の実習生として姉がくる。これもそこそこ誇らしかった。

 

流石にクラスは違うけど、姉が自分の幼稚園にいる。だけど、幼稚園で一緒に遊んだとかの記憶はない。

 

ただ、唯一覚えているのが、

姉が実習の幼稚園の、概要を説明されているときにうちの幼稚園のブラックリスト(要注意園児)の先頭に僕の名前があったようだ。とても気まずかったらしい。

 

姉、当時は恥ずかしい思いをさせてすまん。

 

そんな、保育士の姉には結構可愛がってもらった記憶がある。姉が短大生の時(僕が幼稚園)は、よく姉の車に乗ってマックを買って公園で一緒に食べたりしていた。

 

他にも姉の彼氏(今の旦那)と出かけたりもよくしていた。他にもドラえもんジブリもよく映画館に見に行った。あと、なぜか踊る大捜査線を見た思い出が強く残っている。

 

ちなみに、僕の中学校の初デートも映画だった気がする。今の嫁。

 

そんで、最近独立してからまたちょこちょこ1人で映画館に行くようになった。映画館には縁があるのかもしれない。もしかするとパワースポットなのか?

 

姉との思い出は他にもある。

小学校低学年になって姉が幼稚園の先生になってからもよく一緒に出かけていた。なぜか姉の女友達と一緒にピクニック的なことや海にも行った気がする。あとは、誕生日やクリスマスにはいつもプレゼントを貰っていた。

 

今思えば、当時からよくできた姉だ。

 

僕が物心ついた時には、ウチはすでに裕福な家系では無かった。 
昔はお金持ちだったようだけど。

 

姉は、短大に通いながらモスバーガーでバイトをしてお金を貯めていた。
そのお金で大学の学費を払っていたらしい。そのお金で車も買ったらしい。
そのお金で、僕を映画に連れて行ってくれたり、遊びに連れて行ってくれたらしい。

 

よくできた姉だ。

 

今は、大学生の時に付き合っていた人と結婚して、3人の子供がいる。
一番上の男の子は大学生、次男は高校1年生、長女は中学2年生。


さすがにそれだけの子供がいるとお金がかかるだろう。
今は、なんかNPOの児童保護施設?的なところでパートで働いている。
家事に仕事に忙しくしているけど、休みの日は子供のサッカーの応援に行ったりしているのを見ていた僕は、

 

「自分の人生は楽しいのかな?」
「子供の人生が自分の人生なのかな?」
「確かに子供は幸せだろうけど自分はどうなのかな?」

 

と思っていた。

 

だけど、なんとなくそれも素晴らしい人生なんだろうと感じてきた。

 

ただ、あの時と共通している思いは
「家族が幸せなら自分も幸せ」

の考え方ではなく

「俺が幸せだから家族も幸せ」

の順番がいいなと思っているもうすぐ34歳の僕はまだまだ子供なのだろう。

 

僕が結婚してからも、妻とよく遊びに行ったり、BBQしたりしたのは僕と妻のいい思い出だ。僕も福岡で独立したりしてここ1年バタバタしていて子供も会わせていない。

とりあえず、今年中には一度くらい遊びに行けたらいいな。

 

このブログを書いて、

改めて、よくできた姉だなぁと思う。

 

自分にできない生き方をしている人はすごい。

 

 

 

 

世の中を凌ぐ(21)【カリスマのケン③】

さて、健の続きの話でも書くことにする。

 

onogen0515.hatenablog.com

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 こんな感じで、ダラダラ書いていたら3回目になってしまった。
このペースだと20回目くらいまで続いてしまいそうだから今回で中学校の思い出くらいは終わらせておこうと思う。

※中・高が一緒で高校を卒業してから一緒に関東に出てきたので15年以上の付き合い

 

 

中2の時に転校して、「こいつがこの中学のカリスマだな」とすぐ分かったので転校して3か月は健のストーカーのような動きをしていた。
まずとりあえず、健は頭が悪かった。アニメの主人公みたいな奴だ。
だが、自頭は良かったのか数学と理科はそこそこ出来ていた。

 

僕は、3歳から通っていた公文式のおかげで頭がよかった。だから、英語を教える感じでまずは仲良くなっていった。

 

あと、健は給食を食べるのがめちゃくちゃ早い。
転校先の青戸中は驚くほど自由な校風で、給食を食べ終わったら各自勝手に昼休みになる。なので、早く給食を食べた方が昼休みが長くなる。

健は大体5分で食べおわって一人でフラフラと教室を出ていく。
給食の時間が30~40分で昼休みが20~30分だから1時間くらいの休み時間がある。

 

それを毎日、続けコミュニケーションを取っていった。

すると1~2か月もすると、健とは仲良くなっていった。
そのおかげで、セカンド中学生活は毎日楽しくなった。

健のカリスマ性はまぶしいくらいだった。

どこからどう見ても、初期は健の引っ付き虫みたいな僕だったが、健は一度もマウントを取ってこなかった。常に対等に接してくれた。中学生の時の多感な時期だから、自分の立ち位置を気にする年ごろにも関わらず、健はだれにも対等に接していた。

 

段々、カリスマたる所以が分かってきた。

 

多分、女子生徒の8割は健が好きだったのではないだろうか。と勝手に思っていた。
自分が女だったら間違いなく健一択だ。

 

毎日、健と過ごしているうちに中学三年になった。
ちなみに、青戸中には個性豊かなメンバーが多く毎日飽きなかった。

 

重い心臓病を患っている「ゆういち」←一番騒がしい
転校初日に担任に

「ゆういちくんは激しい運動をすると心臓が止まってしまうからどんなことをされても追いわしたらいけないよ。」

と訳の分からない説明をされたが3日もすれば理由が分かった。
まれにみる「ガヤ」だった。人をおちょくるスネ夫みたいな奴だった。
青戸中だからこそ楽しく学校生活を送れているタイプだ。
でも、嫌いじゃなかった。

 

ゆういちと健との思い出はそこそこある。

なぜか。俺と健は松浦亜弥が大好きだった。
そんな松浦亜弥が鹿児島でライブをやることが決定した。
本気で2人で行こうと考えていたが、中学生なのでお金がない。
親にも松浦亜弥のライブに行きたいからお金をくれと言いづらい。
2人で困っていた。同世代でこんなにもかわいい女性がいるのかと思うくらいに2人でハマっていた。なんなら、青戸中で一番松浦亜弥に似ている同級生と付き合ったのかもしれない。ちなみに今の奥さん。笑

 

そんな話はどうでもよくて、そこで資金調達をするためにゆういちを使おうという話になった。しかし、僕と健はカツアゲをするような人間ではない。
円滑に、ゆういちがお金を出す方法をじっくり考えた。

 

ちなみにゆういちはいつも大金を持っていた。
昼飯とかをコンビニで買いに行くといつも1人だけ1000円近く買う。
僕は200~300円と決めていたし、健なんかは80円のキングチョコしか食べていなかった。だから、あいつならあややのライブ代なんぞ簡単に出してくれると思っていた。

 

作戦はこうだ。

まず松浦亜弥の素晴らしさをさりげなくゆういちにプレゼン。

そんなあややが鹿児島に来ると大げさに報告。
同級生に近い奴が、日本全国でライブをしていることを力説。
俺たちは行くけどお前も行くか?と勧誘

 

俺と健は松浦亜弥のライブに行きたい。しかし金はない。でも勇気と行動力はある。
鹿児島天文館←鹿児島の繁華街  での動きは全て俺たちに任せろ。
だから、少しだけお金も多めに払ってもらえないか?と提案。

ゆういち了承。

契約書を三人で書こう。

 

俺と健サイン済み。ゆういちも記入。

 

以下契約書の中身(多分こんな感じだった)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

契約書

〇月〇日〇時から松浦亜弥のライブに私(ゆういち)は
川畑健と小野源太と参加します。
なお、費用は全てゆういちが負担します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

↑ここの部分は折って隠してある

 

松浦亜弥ライブに必ず行きます!!
署名  川畑健  小野源太   

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これを記載してもらい。サイン後隠してあるところを見せ。
わーわー騒いでいるから、心臓の弱いゆういち君には過酷な
教室の天井にその契約書を画鋲で刺し、保管。
みんなに証人になって貰い。契約成立。

 

という事をやっていた。

 

結局行かなかったが、3人とも本気で行こうとしていたのになぜいかなかったのかは思い出せない。

 

あとは、落とし穴を掘ったりした。

さすがに怒られた。

 

中3になるころには結構仲良くしていたと思う。

この辺から同級生の男5~6人で塾に行き始めた。

 

しかも田舎過ぎて、塾に行くのに車で30分くらいのところにみんなで通っていた。
入塾テストみたいなので、健含む僕以外の奴はみんな一番下のクラスだった。
僕だけ上から2番目のクラス。

やっぱり青戸中の勉強のレベルは低かった。

 

健が部活を引退してからは、頻繁に遊び始めて
川に言ったり、山で秘密基地を作ったり中学3年生とは思えない
少年のような遊びをしていた。

ちなみに高校でもほとんど変わらないけど。

こんな感じで、楽しく中学校生活を過ごし
進路について考える時期になった。

 

 

 

世の中を凌ぐ(20)【カリスマのケン②】

前回、カリスマのケンについてのブログのはずなのに、読み返したら全く健の事を書いていなくて驚いた。

 

onogen0515.hatenablog.com

 題名と内容が全く一致していなくて自分でも憤った。

 

ということで、歳とって忘れないように20年前の事を少しずつ思い出しながら書いていこう。そうなると、僕の奥さんとも転校した鹿児島の中学校で出会ったから出会って20年もたったのだと思うと感慨深い。中学校の思い出は主にこの2人がメインだ。

 

また、話が横道にそれたが健は青戸中学校では10年に1度のカリスマだった。たぶん。
僕が転校したのが中2のいつごろか忘れたけど、その時から健は際立つ存在だった。同級生は40人くらいの小さな中学だったが転校して10日もすれば学年の中心が誰かは直ぐわかる位の感性を僕は持っていた。

 

なんせ、転校前の中学校はまず1学年320人で全校生徒1000人を超えるマンモス校で、ヤンキーも一杯だった。あとは所属していたサッカー部は県内でも有数の強豪校だったので校内でも結構目立つ集団に自分もいた。目立ちながらもヤンキーに目を付けられないように、尚且つ可愛がってもらえるように学校生活を送らなければならない。そこら辺の絶妙なバランス感覚というか感性は前の中学校で磨かれていた。

 

青戸中は前の学校の10分の1位の大きさだから、すぐに誰が中心か分かった。

 

まず1つ下の1年生→関わる必要がない&興味がないのでどうでもいい

一つ上の先輩→危険な人はだれもいない&どうせ仲良くなる前に卒業するだろうから興味ない

 

というわけで、同級生とだけ仲良くしていれば僕の学校生活は平和が約束される。

 

その中で、この学校の中心人物は2人だった。

 

これが川畑健。

あと一人はB君にしておこう。通称べーちゃん

 

なぜこの二人かというと、うーん。

 

べーちゃんは、中心人物になりたい欲が強いけどそれをみんなに見透かされている感じ。例を挙げると、生徒会長に立候補するし、部活のキャプテンや応援団長や合唱コンクールの指揮者に立候補したりするタイプ。一番は、九州でも青戸中の長距離の陸上部は有名でそこのエースだったから自分に自信があったのだと思う。でも、決して嫌な人ではなく素朴な好青年って感じ。

 

対して健は、勝手にみんなに中心に押し上げられている感じ。めちゃくちゃ弱小の野球部のキャプテンで、生徒会とか全く興味ないけど、体育祭は好きだからいつの間にか応援団長になってるし、クラスで積極的に仕切ったりはしないけど重要な決定はみんな健に委ねる感じだし、クラスマッチとかでここぞ!の時に活躍するのも健。要は、「もってる」って感じ。

 

面白いのが学年2クラスしかないから、いつも1組がべーちゃんで2組が健。
そして3年の行事は全て1組と2組が闘う構図になる。

ちなみに2~3年生の時俺も奥さんも2組だった。

 

まず、体育祭は1組が紅組 2組が白組になる。もちろんそれぞれの応援団長はべーちゃんと健。うちの中学は2年生(2クラス)1年生(1クラス)が自分たちのクラスが紅組白組どちらに入りたいか選べるシステムだった。

 

ご想像通り3クラス全て健が応援団長の白組に入りたがる。

 

そしてもちろん、本番も白組が優勝。
合唱コンクールも2組が優勝。
年に3回ある全学年トーナメント形式のクラスマッチも全部2組が優勝。
演劇みたいなのも2組が勝ち。

その他細かいのも全部2組が勝ちだったわけで。

 

 

そこに所々、勝機に絡むのが川畑君なわけですわ。

 

 

2人の大きな違いって、「空気感」だと当時から気付いていた。
健は、みんなを支配したいのではなくいい場を作る才能が人より長けていたのと、あと心から人に気持ちがわかる子だった。

 

 

だから、僕は転校して10日で県と仲良くなろうと思った。
だから最初は、健に引っ付いていた。それがカッコ悪いけど転校生の最初の生き残り戦略だった。

 

眠いから寝ます。

 

世の中を凌ぐ(19)【カリスマのケン】

さて、久しぶりにこっちのブログの方を書こうと思ったけど、書くことがないな。
鹿児島の中学校の事でも書こうかな。

 

僕は14歳の時に栃木から鹿児島に引っ越した。
理由は親の離婚。これはちょいちょい書いてあるので何回かこのブログを見たことがある人は知っていると思うから割愛する。

 

まぁ、思春期真っ盛りだから転校するのはとてつもなく嫌だった。
しかし、子供とは無力である。もちろん、親についていかなければ生きていけないから、母の実家の鹿児島に行くことは避けられなかった。しかも当時の栃木の中学校では県でも有数のサッカーの強豪校で僕はそこで結構頑張っていた。県のセレクションにも呼ばれるくらいには頑張っていた。しかし!転校先にはサッカー部がないとのことだった。仲の良い友達とも離れ、愛してやまないサッカーとも離れなければならなかったと思うとかなりの絶望だったと思う。

 

しかし、僕は案外強かった。
転校して2週間もするとそこそこ順応できるタイプだった。
あとは栃木の中学校は全校生徒1000人とかいたが、転校先は全校生徒100人くらいしかいない中学校でかなり素朴な中学生&ヤンキーもいなくまさに平和で自由な校風で自分にぴったりの環境だった。

 

今振り返ってみても、僕の人格形成の60%はこの鹿児島の中学校で形成された。

一つ、転校あるあるを話すと、
最初に仲良くなった面倒見のいい奴とは最終的に疎遠になる
これはあるあるだと思う。

右も左も分からない自分をすごく気にかけてくれて親切にしてくれた一氏君がいた。
生徒会に属していて、正義感が強い子だった。優しかった。がすごく小さかった。

 

2か月後には同じグループで遊ばなくなっていった。(でも小さい学校なのでみんな仲良しであることは変わりない)

 

とまぁ、あれだけ嫌だった鹿児島でもあっという間に順応できた。
自分は生まれながらに恥ずかしがり屋ではあるが順応性がありどこでも楽しめるタイプだったのだと思う。

そんな中、僕が衝撃的に思ったのが同級生のドン「川畑  健」だ。
青戸中学校は彼の中学校と言っても過言ではなかった。
そんな彼との出会いが僕の人生を大きく変えた。

健とは付き合いが長いので5部作ぐらいになると思う。
かれこれ14歳から33歳の今までだから20年の関係だ。
急に懐かしくなったので健に今から電話を掛けたくなったので、今回はここまでにする。

 

 

では!!

世の中を凌ぐ(18)【後悔先に立たず】

自分1人だけの会社を作ってみて、ふと父を思い出す。


僕の父はもう死んだ。最後は1人で死んでしまった。
だから父に14年ぶりに会った時には病院のベットの上だった。
14年ぶりにみた父は思いの外綺麗な身なりで清潔感があった。
ちなみに死因は食道ガンだった気がする。

 

そんな父は僕が2歳くらいまではそこそこ大きな会社を経営していたらしい。
家は一戸建ての豪邸で、お手伝いさんが常にいて姉は私立の小学校に通っていたらしい。そして母は週末になると父と財界人たちのパーティに出席していたという。今やその影は微塵もない。環境とは怖いものだ。

 

残念ながら僕にはその記憶は全く無い。

 

まぁ父は会社経営に失敗したわけだ。

 

すると物心ついた時には、母は公務員になれ事業はするな、独立もするな、起業もするな、大学に行け、学校の先生になれと僕に言い続けていた。そこらへんのことは昔にどこかのブログで書いたから割愛するが、そんな洗脳を受けていたのにも関わらず、僕は起業した。母はガッカリしているはずだ。自分の元夫が起業して大失敗して、家庭崩壊し離婚したのだから。

 

そんな背景も多少知っていたので、起業すると言ったら反対されるかなーと思っていた。でも、意外とあっさり、「やってみれば」みたいな感じだった。1つ言われたことは、「私(母)に迷惑かけないでね」と言われた。笑
小野家はそんな感じだから、色々な人に不思議がられる。

 

さて、前置きはこのくらいにしておいて

いざ自分で起業すると、今まで知らなかった事がたくさん分かる。それを起業をしたことの無い人に話してもなかなか伝わらないから、起業している人たちと話す事が増える。しかし自分がいつ潰れてもおかしく無い会社だから相手にしてくれる社長も少ない。だから規模がある会社の社長と話す機会はめちゃくちゃ勉強になる。

 

その時、ふと父を思い出す事がある。
どんな内容でどれくらいの規模だったかは知らないけど、そこそこの会社だったと母や姉から聞いている。もしまだ生きていたら話を聞いてみたかったな。とか、経営者だった父に自分の話をしてみたいなとも思う。

 

父が亡くなった時はまさか自分が起業するなんて思っていなかった。だからこんなことも思っていなかった。しかし、その4年後に僕は起業することになる。あと4年父が長生きしていたら、色々な話を聞けたかもしれない。

 

後悔先に立たずだ。

 

 

しかし、父にはその事を教えてもらったかもしれない。
実は、父が食道ガンになって入院しているという情報はキャッチしていた。
しかし、相当元気という情報だったので、14年ぶりに会うには少しリスクがあるなとか(色々とややこしい問題があり)、でも会うなら今のうちだなとか、もじもじして2週間くらいしていたら父は急変して死んでしまった。すぐに駆けつけたが既に死んだ父を見た時それなりに後悔した。

 

後悔先に立たずだ。

 

 

後悔は決断できない奴がする。
結局は父が死んだ瞬間から、知らないうちに
僕が起業することは決まっていたのかもしれないと思う。

 

自分が今日何を食べたいとか、何を着るとか、休みの日には何をするとかの決断はいくらでも出来るのに本当に重要な事の決断を先延ばしにする事が多かった。
後悔先に立たずにしたくなかったら自分で決断し続け自分の決断に責任を持つしかない。

 

後悔は決断ができないと多くなるのだと思う。

 

世の中を凌ぐ(17)【父との思い出①】

僕の両親は僕が中2の時に離婚した。
そのおかげで、栃木県に住んでいたのに鹿児島に転校する事になった。
ちなみに鹿児島は母親の実家だ。
なので中2以降、父と会っていなかった。

ちなみに父は5年前くらいに亡くなっている。

中学生くらいの多感な時期には、親が離婚している事が恥ずかしいと思ったり知られたくないなと思っていたが今はどうでも良くなった。その事については、覚えていたらそのうち書こうと思う。

さて、父との思い出シリーズだが今回は自分が小学2〜3年生の時ぐらいの思い出を書こうと思う。父は破天荒なタイプだった。だから小学生の自分に遊びを合わせるのではなく父の遊びに自分が連れて行かれるパターンだった。その日は、夏休みだったと思う。昼ごろ父が「源太遊びに行くぞ」というもんだから喜んでついて行った。当時の最寄駅の氏家駅で電車に乗り栃木NO1の繁華街宇都宮に向かった。小学生の自分は宇都宮に行くことは小旅行並みに嬉しい。どこに行くかなんて関係なく宇都宮にいければそれで満足だった。電車にゆられ、お昼に立ち食いそばかなんかを掻き込み父の遊び場に向かった。タバコ臭くて、音がうるさい場所だった。そう。パチンコ店だ。2人で店内を練り歩きスロットの台に2人で座った。そこで父はこんな説明をした。
「このボタンをひたすら押す。押せなくなったらメダルをたくさん入れる。メダルが無くなったらこのボタンを押すとメダルが出るからそれをまた入れる。この箱の中がいっぱいになったらお父さんを探せ。お父さんはあっちに(パチンコ)にいるから。」と言われ2人は別れた。小学2〜3年の割には理解力が高かったので何となく理解はできた。ひたすらメダルを入れ、ボタンを1人で押し続けた。勝ったか負けたかはよく覚えてないが途中でパチ屋の店員に「お父さんかお母さんと来たの?」と聞かれ、父来て父はあそこにいると説明したら父と店員が何やら話して、父がパチンコをやめ隣で一緒にスロットを打ち始めた。今思えば、すごい光景だったと思う。小学低学年がパチ屋で親とそれぞれスロットを打っていたのだから。店員もよく帰らせなかったなと今では思う。

 

思えば、パチ屋デビューする前からスーパーでメダルゲームなどを父と一緒にしていたのでスロットのルールもある程度すぐ分かった。きっと、この日のために練習を僕にさせていたのだと思う。なので普通に2人でスロットを何時間かして2人のメダルを合わせて換金した。かなり破天荒な父だとお分かりいただけただろうか。

 

さて、その続きがメインの話だ。前振りが長すぎた。

その換金したお金で、宇都宮で焼肉を食べた。そのあと家に帰るのかと思ったら、父は「まだ遊ぶぞ。泊まれるゲームセンターに行こう」と言ってきた。小学生はお泊まりは一大イベントだ。もちろん2つ返事で承諾した。向かった場所は「南大門」というところだった気がする。俗にいうスーパー銭湯だ。そこでは浴衣に着替え。お風呂に一緒に入ったりテレビを大広間で一緒に見たりした。そして、2人でUFOキャッチャーをして当時流行っていたスーパーヨーヨーと何かのキャラクターのぬいぐるみを父に取ってもらった。UFOキャッチャーで取ってもらったのがすごく嬉しくてものすごく喜んだのを覚えている。最高に楽しい一日を父と過ごし、夜中に雑魚寝ができる仮眠スペースに父と2人で入った。

 

 

 

朝、目を覚ますと枕元においておいたヨーヨーとぬいぐるみがない。
父を起こして、聞いてみると。
「多分、盗まれちゃったのかも」と答えた。すごく悲しくて泣いた。悔しくて泣いたのかもしれない。父はまたUFOキャッチャーで違うぬいぐるみを取ってくれたが、昨日ほどの嬉しさは無かった。その時、物を盗んじゃいけないのに誰が盗んだのだろう、そして僕の頭のすぐ上に置いてあったのにそれを取られたのはかなり近くまで泥棒が接近していたのだと思うと怖かった。なぜこんな事になったのだろうと、電車の中で考えていた。その時は、きっと南大門にいる人たちは悪者が多い場所だったのだろうと予想した。明らかに普段接する人達とは雰囲気が違った気がしていた。
それから南大門には2度と行っていない。あんなに、楽しかった時間を過ごしたのに悪者のせいで嫌な気持ちになったからだ。あそこは悪者が集まる場所だと思っていた。

当時の自分は、悪い人が多く集まるから悪い場所になったのか、悪い場所だから悪い人達になってしまうのかを考えていたような気がする。

 

僕は少し変わった子供だと言われ続けてきた。
きっとこういう教育の賜物だったのだと思う。

教育というか、変わった父だからか変わった子供になったのだと思う。
結果的には、良かったと思う。

 

ちなみに父も会社を経営していたらしいが僕が2歳くらいの時に倒産したらしい。
ある程度成功していたらしいが、お金の使い方が激しすぎたらしい。

 

遺伝子を半分継承しているし、何となくやっている事が似ているので
自分は最大限に気をつけていこうと思う。

世の中を凌ぐ(16)【2020宮崎旅行】

2020年8月25日 今日は奥さんの33歳の誕生日だ。奥さんの誕生日を口実に3泊4日で鹿児島に帰省してきた。3ヶ月ぶりくらいの帰省だったのですごく楽しかった。
最初の2泊3日は宮崎のシェラトンだった。奥さんの実家の家族と義妹家族の計3家族での旅行だった。国内旅行で自分が訪れたホテルの中では一番のホテルだったと思う。初日は青島に行って、神社にお詣りしたり鬼の洗濯岩などを観光した。その後はホテルに戻り最高に雰囲気の良いプールで子供たちと遊び、広い温泉に入った後にお義父さんの部屋で社会人1年目の妻の弟とお酒を飲みながら1日を終えた。2日目は高千穂峡に行った。全くボートが漕げなくて全員に運動神経が悪いことがバレてしまった。まぁ隠してもしょうがないので素直に認めておいた。しかし、高千穂峡はほんとに綺麗な渓谷だった。一生忘れない風景だった。お昼は、シェラトンのビュッフェに行ったがこれまた最高の食事だった。ビュッフエに関しては今まで海外などに旅行をした中でも一番美味しかった。宮崎シェラトン最高。その後はまたプールと温泉のあと3家族で外でとんかつとしゃぶしゃぶのお店へ。そして帰宅後、昨夜に引き続きお義父さんの部屋で、元サッカー選手の義弟と妻の弟とお酒を飲んで2日目は終えた。宮崎最終日は、朝食をホテルで食べ(朝食も最高だった)その後全員で宮崎で有名なフルーツパフェのお店に行った。宮崎のマンゴーはべらぼうに旨かった。その後鹿児島に着いてからも、なぜかココイチでみんなで食事。本当に最高な2泊3日の宮崎旅行だった。そんな濃密な旅行をして夕方に実家に帰ってきた後、お義父さんは直ぐに仕事に行った。これが経営者であり従業員や家族を守っている男なのだと思った。ちなみに、今回の宮崎旅行の金額は全て実家、つまりお義父さんとお義母さんに支払っていただいている。そこそこのサラリーマンの1ヶ月分の給料くらいの金額だったはずだ。必ず恩返ししないといけない。楽しい時間はあっという間で鹿児島に戻ってきて妻の実家に泊まり次の日には福岡に戻っている。その帰りの新幹線のなかで今回の日記のようなしょうもないブログを書いている。

 

ただ、自分はアホだからこんなに素敵な思い出の詳細を忘れてしまうのでいつでも振り替えられるようにここに残しておこうと思う。

 

鹿児島に帰ると、いつも自分がまだまだだと実感するしこのままじゃいけないなと実感する。今の時期はコロナなどで帰省をすると迷惑がかかってしまう場合があるにもかかわらずいつも優しく迎え入れてくれる妻の実家。自分が福岡で会社を立ち上げると言った時も反対もせず好きなようにやらせてくれたし、福岡に行って事業の収益が思うように伸びていないにも関わらず深いことは聞いてこずに励ましてくれる。

このままだと迷惑しか掛けてないからしっかり結果出さないといけないと実感した。

 

あと一番気づけたことは、子育てって大変!自分は福岡で1人で独立したので全ての子育ては妻に任している。ほんとに24時間8ヶ月の凌世の育児だった。今自分は事業だけに集中できる環境を与えられている。失敗したら、妻にも妻の家族にも顔向けできない。時間が許す限り頑張ろう。

 

後、世の中の子育てをしながら仕事をしているお母さん、お父さんは改めて凄い。

 

なんかクオリティがかなり悪いけど、もう直ぐ博多に新幹線がつくのでここら辺でやめておきます。お誕生日おめでとう。過程ではなく結果ですね。