思い出書いておくブログ

なんの取り柄もない33歳のブログ

世の中を凌ぐ(2)【かめはめ波】

幼稚園の時の話を思い出してみた。

保育園で退所させられて母に畦道をいつもおんぶされながら歩いていたらしいが
人間はそんなに変わらない。僕は幼稚園でも相当最悪な奴だったようだ。
人はそんなに根本は変われない。

 

家ではいい子だけど外では悪い子みたいなくそ生意気な幼稚園児だった。
くそぼろい家からは3歳か4歳には引っ越してぼろいマンションに住んでいたと思う。
そのぼろいマンションの目の前が氏家幼稚園だった。

 

2年前くらいに奥さんと当時のマンションを見に行ったら、まだあったけどとてつもなくぼろくなっていた。。。

幼稚園では、お弁当業者が持ってきた園児達のお弁当をまとめている部屋に忍び込み
お弁当を一つ一つ空けてその中の唐揚げを勝手に食べていたり、足が遅いのにリレーのアンカーを無理やりやったりしたことを覚えている。

 

僕が年長の時に姉が短大での教育実習で氏家幼稚園に来たときに園児ブラックリストなるものがあったようでそこにしっかり、僕の名前が書きこまれていて恥ずかしかったって言っていた。

 

とにかく人の気持ちを考えられなくて、自分の思い通りにいかないとかんしゃくを起こすタイプの幼少期。

 

この時期にはっきり覚えていることは。

ドラゴンボールがやたらと好きだった。

いつも、豊岡君と幼稚園で遊んでいたと思う。

あと一人いたけど誰だっけなぁ。

千野根君かな、佐藤直道君だっけなぁ。


幼稚園の時の写真のポーズは2種類だけ

ウルトラマン」のスペシウム光線  か

ドラゴンボール」のかめはめ波
そのほかに「仮面ライダー」にもハマった気がする。
当時はビッグワンっていう、のちにツタヤに代わるビデオショップで
毎週、ウルトラマン仮面ライダーを父さんの自転車の後ろに乗りながら借りに行っていた思い出がある。多分3~4歳くらい。
小学校の時くらいにビッグワンの看板がTSUTAYAに代わっていたはずだ。

 

後は新幹線が好きだった。

 

でも、小学校に上がる前には「ドラゴンボール」にドハマりしていたと思う。
正確に言うと「ドラゴンボールZ」のほうかも。
多分それでも、小さい悟空が出ているドラゴンボールのほうが当時は好きで、
本気でかめはめ波を打てると思っていた。
漫画の中で、亀仙人かめはめ波を打てるようになるまで50年修業した。

 

っていうのを聞いて、1週間くらいはずっとかめはめ波の練習をしていた。

しかし、出なかったと思うしたった1週間かそこらでそのことさえ忘れていた。

 

その他には、クレヨンしんちゃんの真似をするから小野家では見せてもらえなかったけど、母さんが風呂に入っているときとかにこっそり見た時はうれしすぎてこんなにも面白いテレビがあるのかと驚いた記憶がある。
それで、幼稚園でしんちゃんの真似してみたけど、もうみんな真似するブームが終わっていて全然ウケなかった思い出がある。

 

この時くらいから、自分の弱さを気づき始めた。
幼稚園では、全部自分の思い通りにならないと癇癪を起こしていた。

だから、同級生の子たちは僕を怖がっていた。というよりめんどくさがっていたのかも。だけど、勘違いをして「自分は強いんだ」と思って、いつも周りの友達を顎で使っていた。だからなんでも思い通り。砂場で水を汲んできてほしかったら、水を汲みに行かせていたし少し嫌がるそぶりを見せても行かせていた。

しかし、僕は上級生の事は怖かったみたいだ。
上級生がブランコや砂場に来るとおどおどしてしまう。
そんな時、いつも水くみをしてくれていた豊岡君に偉そうに
「あいつらを追い払え!」って言ったら、豊はひるむことなく上級生に
ドラゴンボール界王拳を使う悟空みたいにすごい形相で(当時は気をためると言っていた)「はぁぁぁぁぁっ!」と威嚇した。
すると、上級生たちを見事に撃退したのだ。

 

実は僕自身あまり喧嘩をしたことがなかったと思う。
けんかをする前に癇癪でどうにか解決していたのだ。
でも、豊のこの威嚇があればもう上級生を怖がる必要がない!
やった!!と考えていたことを覚えている。


だけど「それって正しいのか?」って何となくは思っていた。

 

そして、予想通りなことが起きた。
いつも通り何かを豊に命令したときに、豊が
気を溜め始めたのだ。「はぁぁぁぁああぁぁ!!」って
僕にはそれが出来なかったし、味方の時は頼もしかったけど今や敵になりそうになっている。あの怖い上級生を撃退した豊が歯向かってきている。

 

この時僕は、立ち向かえなかった。

 

幼稚園の年長ではじめてマウントを取られた。

 

でも豊は優しいし幼稚園児らしい幼稚園児だったので威張ったりはしなかった。
いつも豊と写真を撮るときは僕は「かめはめ波」豊は「魔観光殺法」だった。
豊は優しい子だった。でも、このことは今もしっかり覚えている。

 

俺は、弱いのに強いふりをしている。

それはカッコ悪いことだ。

 

って、思ったことを。

ほんとは、俺がかめはめ波をずっと使ってはいけないと。
きっとみんなもかめはめ波で写真に写りたいってのは分かっていた気がする。
だけど、当時は同じ技で写真は撮ってはいけないルールだったから、ずっとかめはめ波を独り占めしていた。でも変わらなかった。

 

ちなみに、豊岡君は、小学校、中学校でも同じでずっとサッカー部で一緒でした。
中学校の途中で僕は転校して離れたけど、大学ではたまたま一緒に。
そして母校の小学校に一緒に教育実習に行くという何とも縁が深い友人です。
今も元気かなぁ。

 

豊は大学卒業まで一生懸命サッカー部に入り、見事学校の先生になって今は幸せな家庭を築いています。

 

子供の時の性格は普通に生きていたら大きくは変わらないんだと思いました。

 

今もこのことを覚えてるってことは今も心当たりがあるのかもしれない。
自分の都合のいいように人を使ったりしていないか、常に考えていこうと思う。
僕はテイカーの時期が長すぎた。だけどテイカーは結果的につらくなる。
だったら、ギバーになりたい。自分はそうなれているか気を張らないといけない。

 

かめはめ波を打つ努力もしないし、かめはめ波で上級生も撃退できないのにずっと
かめはめ波を独り占めしていた当時の僕に教えてあげたい。

 

「きっと、みんなかめはめ波のポーズしたいよ。」
「みんなでかめはめ波のポーズしようっていいなよ。」って。